平成3354日目
1998/03/15
この日のできごと(何の日)
【衆院長崎1区補選】倉成正和氏が初当選
長騎県知事選に出馬した西岡武夫・前自由党副党首の辞職に伴う衆院長崎1区補欠選挙は15日投票、即日開票の結果、自民党公認の新人で元外相秘書官の倉成正和氏が、民主党公認の前職で党県顧問の山崎泉氏(55)=平和、民政、友愛、改革ク、民改連推薦、共産党公認の新人で党県委員の寺田善則氏(42)の2候補を破り、初当選した。
倉成氏と次点の山崎氏の得票差は約1万6000。最終投票率は38.14%と、小選挙区制の下で4回実施された衆院補選では2月の茨城5区(33.96%)に次ぐ低さだった。
自民党は参院選の前哨戦と位置付けた知事選、衆院長崎4区補選から3連勝。大蔵省、日銀汚職の影響を一応食い止めたことで、橋本政権の基盤を維持し、景気対策をてこに衆院東京4区補選など当面の政局を乗り切る構えだ。民友連にとっては、新「民主党」結成で合意した直後だけに、自民党との初の直接対決に敗れたことを受け、新党の選挙態勢づくりが大きな課題となる。《共同通信》
昭和64年1月1日〜このサイトをご覧頂いている日の一週間前まで、すべての日の「何らかの」できごとを記しています。
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【大相撲春場所】8日目
大相撲春場所8日目(15日・大阪府立体育会館)ただ一人全勝の大関若乃花は、琴竜を左から引き落として8連勝。勝ち越しを決めた。2敗で追う横綱曙は豪快な右上手投げで敷島に快勝。大関武蔵丸は巌雄を危なげなく寄り切り、小結魁皇との熱戦を制した大関貴ノ浪とともに5勝3敗。魁皇は敗れて3敗となった。関脇武双山は激しい突き合いから千代大海を突き落として5勝目を挙げた。この日の結果、全勝の若乃花を星二つの差で追うのは曙、平幕の五城楼の2人。十両は久島海が7勝1敗で単独首位を守った。《共同通信》
【明石海峡大橋】親・子・孫、三代の夫婦30組180人が渡り初め
4月5日に開通する明石海峡大橋の長寿を願って15日、地元の親・子・孫3代の夫婦30組、180人が橋の渡り初めをした。一般の人が橋を渡るのはこれが初めて。
当初は、橋の両側から真ん中まで歩き、橋上で握手する予定だったが、この日は15、6メートルの強風が吹いたためバスでの渡り初めとなった。《共同通信》
【石川県知事選】谷本正憲氏が再選
任期満了に伴う石川県知事選は15日、投票が行われ、即日開票の結果、現職の谷本正憲氏(52)=無所属、自民、民主、自由、民政、社民、友愛、公明推薦=が、35万5426票を獲得し、8万1737票の新人清水毅氏(55)=無所属、共産推薦=に大差を付けて再選を果たした。
県政界を二分する激戦だった前回、前々回の選挙は、ともに70%を超える高い投票率だったが、今回は「オール与党対共産」の対立構図の中で49.51%にとどまり、知事の座が公選となって戦後14回を数える知事選では、昭和34年の44.56%に次ぐ二番目に低い投票率となった。《北國新聞》
【橋本龍太郎首相】インドネシア・スハルト大統領と会談
橋本龍太郎首相は15日午前、インドネシアのスハルト大統領とジャカルタ市内の大統領私邸で2時間20分にわたり会談した。
首相は深刻なインドネシアの経済危機に関し「大統領が難題克服に向け勇気ある選択を行うことを期待する」と要請。大統領は「国際社会も弾力的になってほしいし、自分も弾力的になる用意がある」と述べ、国際通貨基金(IMF)と合意した経済構造改革プログラムの実施についてIMF側と柔軟に話し合う姿勢を表明した。
また両首脳は、国際的ルールに基づいて国際社会と協調、協力し、インドネシアの国内改革を進めることが重要との認識で一致。首相は医薬品供与、食料支援、貿易保険の引き受け実施に加え、粉ミルク供与など2、30億円の追加の無償支援を表明した。《共同通信》
【松永浩美内野手】野手初の大リーガーならず
37歳の挑戦は実らなかった。米大リーグ、アスレチックス入りを目指していた元ダイエーの松永は15日(日本時間16日)のエンゼルス戦の八回、先頭打者としてこの日二度目の打席に立った。
ジェームズの真っすぐを振り抜くと打球はきれいに一、二塁間を抜けていった。「皮肉やね。最後にヒットが出るなんて」。オープン戦初安打は現役最後の安打だった。
野手として初の日本人大リーガーという夢はかなわなかった。それでも、松永の表情から笑みが消えることはなかった。「完全燃焼したと言うことしかない。精いっぱいやったということに満足しているよ」。すがすがしい顔で夢への軌跡を振り返った。
2月19日からアスレチックスのキャンプに参加。米国式の合理的な練習。ストライクゾーンの違い。戸惑いはしたが、37歳のルーキーは年齢を全く感じさせない軽快なフットワークで白球を追い続けた。日本での実績は役には立たなかった。一度も先発出場の機会は与えられず、代走に起用されたこともあった。
「日本からちょっと来て、ハイどうぞ、というわけにはいかない。それだけメジャーは厳しい」。そう実感したが、あこがれの場でプレーできる楽しさから、明るさを失うことだけはなかった。
オープン戦、Bゲームを含めた“大リーグ通算成績”は18打数2安打。それでも「自分が一生懸命やったことを評価したい」と胸を張った。
1816試合に出場した日本での通算打率は2割9分3厘、2000本安打にはあと96本だった。練習生からはい上がった男は野球人生にこれで一区切りをつけた。
ロッカールームで仲間たちと握手し、別れを告げた。愛息の賢典君と一緒にクラブハウスを引き揚げる後ろ姿は一抹の寂しさを感じさせたが、すべてをやり尽くした誇りも漂っていた。《共同通信》