平成1440日目
1992/12/17
この日のできごと(何の日)
【多摩川水害訴訟】差し戻し審
昭和49年、台風に伴う集中豪雨による洪水で多摩川の堤防が決壊し、家を流されるなどの被害を受けた東京都狛江市の住民ら34人(28世帯)が、国家賠償法に基づいて国に総額約4億6600万円の損害賠償を求めた「多摩川水害訴訟」の差し戻し控訴審判決が17日、東京高裁であった。
時岡泰裁判長は「災害現場近くの堰やその取り付け部護岸などは、河川工学上の一般技術的水準に照らして安全性に問題があり、国は遅くとも昭和46年には災害発生を予見することが可能だったのに、災害発生を回避する措置を講じなかった」と、国側の河川管理に落ち度があったことを認定。
住民側の請求を認めた一審東京地裁判決の賠償額を約700万円増やし、国に3億1374万円の支払いを命じた。国側の控訴は棄却した。
災害から18年。勝訴ー敗訴ー差し戻しを経て、4回目の判決で住民側逆転勝訴となった。住民側に不利な判決が続いていた水害訴訟の流れを変える可能性があり、行政側は河川管理の再点検を迫られそうだ。《共同通信》
昭和64年1月1日〜このサイトをご覧頂いている日の一週間前まで、すべての日の「何らかの」できごとを記しています。
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【フジ系連続ドラマ・その時、ハートは盗まれた】最終回
【ロシア・エリツィン大統領】初の中国訪問
ロシアのエリツィン大統領は17日、ソ連解体後、ロシア大統領としては初めて中国を公式訪問し、北京の人民大会堂で楊尚昆国家主席と首脳会談。善隣友好関係の樹立で一致した。また双方は経済、貿易関係を発展させる立場を表明、両国がイデオロギーの違いを超えて「新しい時代」を切り開いていくことが確認された。
エリツィン大統領は18日、江沢民共産党総書記、李鵬首相と会談した後、楊主席との間で両国の共同宣言に調印する。《共同通信》
【宮澤喜一首相】パキスタン・シャリフ首相と会談
宮澤首相は17日午前、首相官邸で、来日中のパキスタンのナワズ・シャリフ首相と約1時間半会談した。宮澤首相が、パキスタンの核兵器開発疑惑についてただしたのに対し、シャリフ首相は「パキスタンは核爆弾は持っていない。核開発で得られた技術は、エネルギー源などの平和目的に使用している」と述べ、パキスタンの核開発は平和利用目的であることを強調、疑惑を否定した。
これに対し、宮澤首相は「この問題についてはさらに検討する必要がある」として、日本とインドの間で合意している核不拡散問題に関する二国間協議と同様の協議を、パーキスタンとの間でも行うことを提案、シャリフ首相も同意した。訪問した。さらに宮澤首相が、パキスタンが核拡散防止条約(NPT)に参加するよう求めたのに対して、シャリフ首相は、インドとの同時参加が条件とした。
【自民党・梶山静六幹事長】首相の靖国参拝実現に努力
自民党の梶山幹事長は17日、都内で行われた全国戦没者遺族大会(日本遺族会主催)であいさつし、「皆さんの長年の悲願である総理の靖国神社参拝が昭和61年以降中断しているのは、誠に申し訳ない。速やかに実行できるよう努力を払いたい」と述べ、宮澤首相の靖国神社参拝を早期に実現するよう求める考えを表明した。《読売新聞》
【独・コール首相】ソマリアに1500人派兵
ドイツのコール首相は17日、国連指揮下の多国籍軍が人道的軍事介入に踏み切ったソマリアに、武装兵力を含むドイツ軍兵士1500人を派兵する、と発表した。ドイツが戦後、北大西洋条約機構(NATO)域外に武装兵力を派遣するのは初めて。派兵時期は「停戦実現後の介入第二段階で」(ボール首相府長官)とされ、来年1月末ころと見られている。また、武装兵力の規模など詳細は明らかでないが、リューエ国防相は16日夜、歩兵部隊の派遣を検討中と語っていた。
派遣されるドイツ兵の中心は、工兵、衛生兵、通信兵だが、これら非戦闘員を保護するための武装部隊が含まれることについて、最大野党・社会民主党(SPD)のエングホルム党首は17日、「完全に違憲」と非難、「実施された場合は、法的措置に訴える」として、憲法裁判所に提訴する構えを見せている。
対ソマリア軍事介入では、ドイツはすでに空軍輸送機2機をケニアに派遣しているが、これを直ちに計8機に増やすほか、停戦実現後には、通信設備の復旧やソマリア警察再建に専門家をも派遣するという。《読売新聞》
【山川惣治さん】死去
「少年ケニヤ」などで一世を風びした絵物語作家の山川惣治さんが17日午前1時27分、心不全のため千葉県八千代市の病院で死去した。84歳だった。
山川さんは昭和7年、紙芝居製作所・そうじ映画社を興し、多くの紙芝居を制作、昭和初期の紙芝居ブームを作った。
同13年文部省主催の日本紙芝居コンクール入選を機に、雑誌「少年倶楽部」で「宣撫の勇士」「ノモンハンの若鷲」「和井内鱒」など戦記、伝記絵物語を発表、絵物語作家としてデビューした。戦後は、紙芝居や少年誌で作品を発表した一が、特に「少年王者」(昭和22年)、「少年ケニヤ」(昭和27年)など密林冒険物が人気を呼んだ。《読売新聞》