平成2112日目

平成6年10月20日(木)

1994/10/20

【プロ野球・ダイエー】王体制の新陣容決定

ダイエーは20日、福岡ドームで王監督を支える4人の新コーチを含む来季の1軍コーチングスタッフの発表を行った。

会見には王監督、瀬戸山球団代表と信任の寺岡孝ヘッド兼守備走塁、村田兆治投手、高橋慶彦打撃兼走塁、達川光男バッテリーの4コーチが出席した。寺岡コーチを除く3人のコーチ就任は初めてで、村田コーチ以外は広島OB。

王監督は「勝つためには必要なコーチを選ぶことが第一条件。4人はそれぞれのスペシャリストで、(自分の)不得意な部分をカバーしてくれると確信している」と期待を寄せていた。《共同通信》



【フジ系連続ドラマ・29歳のクリスマス】放送開始

【社会党】細川元首相らの喚問を要求

社会党は20日午後の衆院予算委員会理事会で、細川元首相、小沢新生党代表幹事、日本新党の近藤豊、無所属の大谷忠雄両衆院議員の証人喚問を要求した。喚問要求の理由は細川氏については「首相辞任会見での発言と6月の証人喚問での発言が矛盾し、偽証の疑いがある」としている。小沢氏はゼネコン疑惑との関係、近藤、大谷両氏は政治資金に関する税金の不正還付問題。《共同通信》

【村山富市首相】ふるさと事業農山版検討を指示

村山首相は20日午後、首相官邸に野中自治相を招き、ウルグアイ・ラウンド合意に伴う農業対策に関連して「ウルグアイ・ラウンド合意で地方、特に農山村地域に深刻な影響が出ている。農山版ふるさと事業のようなものを自治省でも検討してほしい」と新たな農業対策の検討を指示した。

これに対し自治相は「与党とも相談し知恵を絞って努力したい」と答えた。《共同通信》

【村山富市首相】「2つの中国」支持せず

村山首相は20日午後、首相官邸で社会党との協議のため来日した中国共産党の李叔錚中央対外連絡部長と会談した。

李部長は、広島アジア大会への台湾の徐立徳行政院副院長来日に関連して「日本が正しく対処しないと中日関係に影響が出る。中日共同声明、平和友好条約を堅持することが大切だ。日本社会党が一つの中国の立場を守っていることは留意している」と述べ、日本政府が「一つの中国」政策を順守するよう強く求めた。

これに対し首相は「共同声明は両国関係の基礎であり、精神を順守していくことに変わりはない。日台は非政府間関係で『2つの中国』を支持することはない」と答えた。村山首相はさらに「アジア太平洋情勢の中で日中関間取り係の重要性が増すとの認識で取り組んでいくのがこの内閣の課題だ」と述べた。

李部長はまた、村山内閣の姿勢を評価しながらも、日中関係に影響を与えるものとして「侵略戦争に対する認識」を挙げて懸念を示した。首相は「非核3原則、武器輸出禁止政策を守り、武装して外国に行くことはない」などと述べ、憲法の枠内で政策を実施する意向を強調した。《共同通信》

【皇后陛下】還暦に

皇后さまは20日、60歳の誕生日を迎えられた。昨年の誕生日に突然倒れ、一時は言葉を話せなくなったが、その後、米国、欧州と二回の外国訪問などの多忙な日程をこなされ、発声も以前とほぼ変わりのない状態に回復している。還暦に当たって宮内記者会の質問に文書で答えた皇后さまは「だんだんと年を加えることに少し心細さを感じますが、身に起こることをできるだけ静かに受け入れていけるようでありたい」などと感想を述べられた。

60年間で印象に残ることとして、戦争中の疎開先での経験を挙げるとともに「結婚は私の生活を大きく変えましたが、陛下はありのままの私を受け入れ、今日までゆっくりと導き続けてくださいました」と振り返られた。

紀宮さまの結婚問題への質問では「本人の気持ちを大切にし、静かに見守っていきたいと思います。紀宮がいてくれたことは私ども一家にとり幸せでした。今、家族皆が紀宮の将来が幸せであってほしいと願っています」と母親としての心情を語られた。

20日は午前中、皇居・宮殿で村山首相らから祝賀を受けられる。《共同通信》

【政界談話室】

○…村山首相は20日、皇居で開かれた皇后さまの誕生日を祝う行事に出席した。えんび服姿の首相は、記者団から「皇后さまは皇室に新風を吹き込んだが、首相に政界に新風を吹き込むのかと聞かれ、「日本の政治を変えていく。新しい時代に対応してね」ときっぱり。「皇后さまは、新しい風もそれに先立つ時代なしに生まれ得なかった、語られていたが」と問われると、「その通り」とわが意を得たりといった表情に。「長い55年体制があって、世界が変わり、日本が変わった」と解説して、村山政権の歴史的役割をあらためて自分に言い聞かせていた。

○…自民党の森幹事長はこの日、三塚派の総会に出席、派閥から25年の永年表彰を受け「人が集まれば群れができる。群れを良くするか、悪くするかだ」と派閥論を披露。「仲間意識を持ちながら切磋琢磨し自民党を新陳代謝させた」と派閥の“功”を説く一方、「角福戦争のころから派閥戦争が激化し、その後120人の派閥(竹下派)が分裂して、自民党がならくに落ちて野党に転じた」と“罪”も力説した。「久しぶりの古里(三塚派)で、ついつい長話をしてしまった」と締めくくったが、日ごろ派閥解消に意欲的な割には郷愁は捨てらない?《共同通信》

【オランダ】安楽死の一部始終放映

オランダで20日、安楽死を希望する男性の要請に応じ、医師が薬品でこの男性を死亡させるまでを描いたドキュメンタリー「依頼された死」がテレビで放映され、安楽死の是非やメディアの在り方をめぐる論議が起きている。

この番組は、オランダのテレビ局IKONが本人と医師の了承を得て取材、20日夜、1時間にわたり放送した。安楽死を求めたのは、アムステルダムに住んでいたケース・ファン・ウェンデル・デ・ヨードさん(63)で、ヨードさんは筋力が低下し、体が動かなくなる難病、筋委縮性側索硬化症(ALS)だった。

IKONの取材チームは1993年末、ヨードさんと医師らのカウンセリングから、94年3月、ヨードさんの誕生日に医師の注射で息を引き取るまでをビデオで追った。最後のシーンはヨードさんを抱き寄せていた妻が医師から臨終を告げられ、「これでよかったのよ」と語るところで終わる。

オランダは安楽死を合法化してはいないが、医師らは患者との頻繁な意思疎通など定められた規則を順守する場合に限り、患者を安楽死させても刑事訴追を免れる仕組みになっており、先進国でも最も安楽死に開かれた制度を持っている。《共同通信》

【米・バージニア州】老カップル、50年の歴史に幕

第二次世界大戦で仲を裂かれ50年ぶりに再会した米国の初恋のカップルが20日夜、バージニア州クアンティコでハイウエーを横断しようとして車にはねられ、二人とも死亡した。

カリフォルニア州サンノゼのポール・フラナガンさん(71)とケンタッキー州オーエンズボロのドロシー・トムソンさん(69)は、ピザ店で二人きりの夕食を終えたところだった。

ドロシーさんの娘がAP通信に語ったところでは、ポールさんはドロシーさんとダンスパーティーで知り合い2年間デートを続けていたが、1944年秋、第二次大戦に出征する前の晩に、結婚を申し込んだ。

「まだ若いから」とドロシーさんはプロポーズを断り、戦争が終わってからの再会を約束した。だが二人はそれっきり音信不通になり、それぞれ結婚した。その後ドロシーさんは夫に先立たれ、ポールさんは離婚。ことしになってようやく手紙のやり取りが始まった。そしてポールさんの戦友会が開かれるのを機に米東部ピッツバーグで再会し、東海岸の旅行を二人一緒に楽しんでいた。

事故の前にドロシーさんは娘に電話で「幸せ過ぎて言葉もない」とびを伝え、ポールさんも「もうドロシーを離さない」と話していたという。

二人が死んだのはドロシーさんがプロボーズを断ってて、ちょうど50年目の次の日だった。《共同通信》

【バート・ランカスターさん】死去

「地上より永遠に」「OK牧場の決闘」などに出演、アカデミー主演男優賞を受賞した米映画俳優バート・ランカスター氏が20日、心臓発作のため米ロサンゼルスの自宅で死去した。80歳だった。アクションスターとしてデビューしたが人間味あふれる個性派として次第に演技の幅を広げ、出演作は70本以上に上った。1980年代に入ってから時折、心臓発作を起こしたり、90年には脳卒中で倒れるなど、晩年の健康状態は優れなかった。

ニューヨーク生まれ。父は郵便局員。子供のころから映画好きだったが、スポーツの才能に恵まれ、バスケットボールの奨学生としてニューヨーク大学に入学。二年で中退した後は、7年間サーカスでアクロバットを演じた。第二次大戦中、陸軍に所属したころ演技に興味を覚え、45年ブロードウェーの舞台に立った。46年に「殺人者」でハリウッド入り。53年の「地上より永遠に」でスターの座に就き、60年に「エルマー・ガントリー」でアカデミー主演男優賞を獲得した。

主な出演作は「真紅の盗賊」(52年)、「バラの刺青」(55年)、「終身犯」(62年)、「山猫」(63年)、「大空港」(70年)、「家族の肖像」(75年)など。《共同通信》



10月20日のできごと