平成10868日目
2018/10/10
この日のできごと(何の日)
【台湾・蔡英文総統】中国への警戒感あらわに
台湾の蔡英文総統は10日、総統府前で行われた建国記念日に当たる「双十節」の式典で演説し、「中国の一方的な文攻武嚇と外交圧力により、台湾海峡の平和と安定は深刻な挑戦にさらされてきた」と述べ、中国への警戒感をあらわにした。蔡氏は就任後2年連続で中国当局に呼びかけてきた対話や交流に言及せず、外交・安全保障面での圧力に対抗する姿勢を強調した。
蔡氏は演説で、内政重視の過去2回と異なり中国問題を優先。「軽率に対抗(策)を強めないが、屈服も譲歩もしない」と述べ、自らは中台関係の「現状維持」方針を変えないと訴えた。半面、中国には「責任ある大国として地域と世界の衝突の発生源となるべきではない」と強硬姿勢を改めるよう求めた。《産経新聞》
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【金足農高・吉田輝星投手】プロ志望届を提出
今夏の全国高校野球選手権大会で準優勝した、秋田県立金足農業高校の吉田輝星(こうせい)投手(17)が10日、秋田市の同校で会見し「たくさんの方と話し合い本日午前、プロ野球志望届を出した」ことを明らかにした。大会前は指導を受けていた八戸学院大(青森県八戸市)への進学を予定していたが、甲子園以降、「戦ってきた一戦一戦で気持ちが変わってきた」と説明した。
吉田投手は9月のU18(18歳以下)アジア選手権の高校日本代表ではエース格を務め、高校最後の登板となった2日の福井国体では最速152キロを計測した。プロ志望届を出すことを決めたのは、国体から秋田に戻った翌日の4日。「(県大会前は)大学に行きたいと思っていた。でも幼い頃からの夢だった、プロ野球選手になりたい気持ちが強くなった」。また「U18では日の丸を背負って苦い経験をした。今度は勝てるようになりたい」と今後の抱負を語った。《産経新聞》
【日本・オーストラリア】北朝鮮非核化へ連携
日本、オーストラリア両政府は10日(日本時間同)、シドニーで外務・防衛閣僚協議(2プラス2)を開いた。北朝鮮の非核化実現に向けた制裁維持や、海洋進出を強める中国をにらんだ海洋安全保障分野での連携を確認。共同訓練を含む防衛当局間の協力強化でも合意する見通しだ。
日豪2プラス2は昨年4月以来。協議に先立ち、岩屋毅防衛相はパイン国防相と個別に会談し、自衛隊とオーストラリア軍が相手国内で共同訓練を円滑に実施するため、隊員の法的地位を定める新たな協定について、交渉の早期妥結に努力することで一致。共同訓練の拡充でも合意した。《共同通信》
【富山交番襲撃事件】22歳男を再逮捕
富山市の交番で6月、警察官が刺殺され、奪われた拳銃で警備員が射殺された事件で、富山県警は10日、交番所長のA警部補=当時(46)、警視に昇任=に対する強盗殺人や公務執行妨害、銃刀法違反の容疑と別の傷害容疑で、同県立山町の元自衛官S容疑者(22)を再逮捕した。
県警によると、S容疑者はいずれの容疑についてもおおむね認めているという。
S容疑者は交番襲撃後、周辺の住宅地をうろついた上、奪った拳銃で近くの小学校に向けて2発発砲。警備員への殺人未遂容疑で現行犯逮捕されたが、その際に警察官の発砲で負傷、入院治療のため釈放されていた。《共同通信》
【小泉純一郎元首相】「来年に憲法改正なんて無理だ」
小泉純一郎元首相は10日夜、東京・赤坂の日本料理店で山崎拓元自民党副総裁らと会食した。会食後、小泉氏は記者団に対し、安倍晋三首相が意欲を示す憲法改正について「来年に憲法改正なんて無理だ」と述べた上で、来年の参院選の争点にせず、与野党で協力して丁寧に進めるべきだという認識を示した。
小泉氏は会合でも憲法改正について発言したとし、「3分の2の国会議員の賛成がなければ発議できない。過半数でできる問題とはわけが違う。選挙の争点にしない方がいい」と述べた。
会合は小泉、山崎両氏のほか自民党の中谷元(げん)元防衛相、武部勤元同党幹事長、杉村太蔵元衆院議員も同席。山崎氏らは小泉氏の認識で一致したという。《産経新聞》
【佐々淳行さん】死去
産経新聞の正論メンバーで初代内閣安全保障室長を務めるなど危機管理、安全保障のパイオニアとして知られる佐々淳行氏が10日、老衰のため死去した。87歳だった。
昭和5年、東京都出身。東京大学法学部卒業後、29年に国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁。警備や公安畑を歩み、44年の東大安田講堂事件、47年のあさま山荘事件など戦後史に残る重大事件で対処に関わった。
香港領事、三重県警本部長などを経て旧・防衛庁へ出向。防衛施設庁長官などを歴任した。61年には内閣安全保障室長に就任。平成元年の昭和天皇大喪の礼の警備を最後に退官した。
現役の防衛庁幹部当時に出版しベストセラーとなった「危機管理のノウハウ」(PHP)などの著作を通じ、日本社会に「危機管理」という概念を定着させ、公職退任後も新聞やテレビなど多方面で活躍。テロや災害から国民の生命・財産を守り損害を減らす備えの重要性を訴え続けた。《産経新聞》