平成6099日目
2005/09/19
【北朝鮮】6カ国協議で核放棄を確約
第4回6カ国協議は19日、北朝鮮が「すべての核兵器と既存の核計画を」を放棄し、核拡散防止条約(NPT)復帰と国際原子力機関(IAEA)の査察受け入れの確約を盛り込んだ初の共同声明を採択した。
焦点となった北朝鮮の「核の平和利用」の権利や軽水炉提供問題も明記、米朝、日朝の正常化に向けた措置も確認した。《共同通信》
昭和64年1月1日〜このサイトをご覧頂いている日の一週間前まで、すべての日の「何らかの」できごとを記しています。
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【WBAフライ級タイトル戦】坂田健史選手、戴冠ならず
世界ボクシング協会(WBA)フライ級タイトルマッチ12回戦は19日、東京・後楽園ホールで行われ、同級3位で挑戦者の坂田健史(協栄)はチャンピオンのロレンソ・パーラ(ベネズエラ)に0−2の判定で敗れ、タイトル奪取に失敗した。パーラは4度目の防衛。《共同通信》
【ダイエー創業者・中内功さん】死去
ダイエー創業者で、経団連(現日本経団連)副会長などを歴任した中内功(なかうち・いさお)氏が19日午前9時半、脳梗塞のため、神戸市内の病院で死去した。83歳だった。
1957年、大阪市内に1号店の「主婦の店ダイエー」を設立。米国流スーパーマーケットの仕組みを導入。 メーカーと対立しながらも、「価格決定権は消費者にある」とする流通革命を推進した。 72年には売上高で三越を抜き、創業15年で小売業首位に成長させた。
ダイエーは全国的な店舗網を構築する一方で、リクルートなど異業種もグループに加えた。プロ野球ホークス球団を買収するなど事業拡大を続けた。しかし急速な多角化で有利子負債が膨らみ、経営が悪化。2002年にはグループの全役職を退いた。《日経新聞》
【後藤田正晴さん】死去
旧内務官僚出身で、自民党衆院議員として、副総理や官房長官などを務め、晩年は「政界のご意見番」として知られた後藤田正晴氏が19日、肺炎のため死去した。91歳。徳島県出身。
1939年に東大を卒業して内務省に入り、69年に警察庁長官に就任。長官時代には、70年安保闘争や過激派の爆弾テロ行動の対策に力を入れた。72年には当時の田中角栄首相に請われて官房副長官に就任。76年、衆院選徳島全県区で初当選し、計7回当選した。
政界入り後は、旧内務官僚出身で各省庁ににらみを利かす実力が評価され、歴代首相から頼りにされた。「田中氏の懐刀」「カミソリ」などの異名をとった。79年の大平内閣で自治相、82年の中曽根内閣で官房長官、83年に行政管理庁長官、84年に総務庁長官、85年には再度官房長官に就いた。
中曽根首相が「戦後政治の総決算」を掲げるなかで行った「防衛費のGNP(国民総生産)1%枠の突破」などに対しては、内側から歯止めをかける役目を果たした。87年9月、ペルシャ湾の安全航行の寄与策として中曽根氏が掃海艇派遣を言い出した際には、首相執務室で怒鳴りあってまで反対したというエピソードも。
政界を揺るがし、竹下内閣の崩壊につながったリクルート事件後には、自民党政治改革委員長として、派閥や族議員が幅を利かす党の体質改善を柱とした「政治改革大綱」をまとめた。
92年に成立した国連平和維持活動(PKO)協力法をめぐり、自民党内で論議が行われていた91年秋には、「部隊における正当防衛は憲法で禁じる武力行使にあたらないのか。この法案はガラス細工のようで危ない。歯止めが必要だ」と懸念を表明するなど、護憲の論客として知られた。92年の宮沢内閣では法相、93年に副総理を兼務した。《朝日新聞》