平成4508日目

2001/05/12

この日のできごと(何の日)

【森喜朗前首相】お国入り

森喜朗前首相は12日、退陣後初めて地元・石川県に帰り根上町での女性後援会総会に出席、約600人の歓迎を受けた。森氏は同日夕、小松空港に到着。墓参後、同町内の会場に入った。

出席者によると、森氏は晴れ晴れとした表情で「自分が辞めることで党が良くなればと考えて身を引いた」と辞任に至った経緯を説明したという。《共同通信》

12日、根上町総合文化会館で開かれた女性後援会の総会であいさつした森喜朗前首相は、7月の参院県選挙区について「沓掛哲男前環境副大臣の相手がだれになろうと2区(加賀地区)は私が中心となり、何としても勝たせる」と気炎を上げた。

沓掛氏が北國新聞のインタビューに「能登で勝って加賀でとんとん」などと述べたことに「情勢分析が甘く、とんでもない。能登でも油断はできない」と指摘、壇上に同席した沓掛氏を戒めた。

一年間の森内閣の成果について森氏は、小渕恵三元首相がやり残した沖縄サミットや構造改革に道筋を付けることができたと評価し、「思い通りの人に引き継ぐことができ、気持ちよくさわやかに退陣した」と述べ、小泉内閣に期待を寄せた。《北國新聞》

昭和64年1月1日〜このサイトをご覧頂いている日の一週間前まで、すべての日の「何らかの」できごとを記しています。

情報量が少ない日は随時加筆中です。

引用記事は名前、住所など一部修正の上、抜粋してあります。

外国の方のお名前、地名などは現時点で一般的に通じるものに書き換えています。(例・ロシアのプーチン氏はかつてプチン氏と表記されていました)

古い記事の多くは「書き写し」のため、誤字脱字が多数あります。見つけ次第修正しています。

このサイトについて

【J1】第9節

Jリーグ1部(J1)第9節(12日・静岡スタジアムほか=8試合)来年のワールドカップ(W杯)の会場となる静岡スタジアムで行われた1、2位対決は、2位の清水が1−0でVゴール勝ちし、磐田の開幕からの連勝を8で止めた。

ともに無得点の延長前半14分、清水は相手守備の乱れを突いて平松が決勝ゴールを決めた。清水は勝ち点を18とし、磐田との差は6に縮まった。

名古屋もG大阪にVゴール勝ちし、勝ち点16。札幌は鹿島に競り勝ち、鹿島は3連敗。浦和は小野のVゴールで神戸に勝った。神戸の三浦はJリーグ通算得点を114として、単独トップに立った。柏はF東京に敗れ、最下位の東京Vも市原に屈して4連敗。《共同通信》

【米政府】台湾総統のNY滞在許可

米国務省当局者は12日、台湾の陳水扁総統が今月下旬からの中南米5カ国歴訪に先立ち、通過滞在のためニューヨークに2泊し、帰路にヒューストンに1泊することを米政府が許可した、と明らかにした。

台湾の中央通信は米政府当局者が、陳総統が滞在中に米議員と会談することを認めるとする方針を確認したと地耐えた。

米国が、台湾総統のニューヨーク通過滞在と米議員との会談を認めるのは、1979年の米台断交以来初めて。

大規模な兵器供与に続くビッシュ政権の台湾への“好意的な”措置に中国側が反発するのは必至で、軍用機接触事故や兵器供与問題で大きく揺れた米中関係がさらに緊張に向かう可能性もある。《共同通信》

【OBサミット】歓迎レセプション

世界各国の首相、大統領経験者が意見交換する「OBサミット」開会に先立ち、シュミット元西ドイツ首相など会議出席者の歓迎レセプションが12日夜、兵庫県・淡路島の会場で開かれ、参加者が子どもミュージカルなどのアトラクションを楽しんだ。

昨年開催の「淡路花博」会場にもなった大温室「奇跡の星の植物館」に首相OBや地元関係者ら約160人が出席。歓迎会では、同県の貝原俊民知事が「阪神大震災からの復興を遂げた淡路島での開催を心より歓迎します」と英語であいさつし、続いて共同議長のフレーザー元オーストラリア首相が震災復興への努力に敬意を表すスピーチをした。《共同通信》

【小泉純一郎首相】「米百俵」の精神で教育改革

小泉純一郎首相は12日午前、都内で開かれた実践倫理宏正会の創立55周年記念式典であいさつし、教育改革に積極的に取り組む考えを表明した。

首相は先の所信表明演説の教育改革に関する記述に触れ「軽視しているのではないかとの批判もあるが、そうではない」と強調した。さらに演説に盛り込んだ明治維新の際の長岡藩の「米百俵」の逸話に言及し「一番素晴らしい教育改革論は米百俵の話だと、ほめてくれる。今良ければ明日はどうでもいいでは、世の中お先真っ暗だ。(それで)米百俵の精神を取り入れた」と訴えた。《共同通信》

【ペリー・コモさん】死去

穏やかで甘い歌声が世界の女性を魅了した米ポピュラー界の代表的歌手ペリー・コモ氏が12日、病気のためフロリダ州の自宅で死去した。88歳。病名は明らかにされていないが、遺族によると眠るような最期だったという。

1930年代にプロ歌手となり、ラジオやナイトクラブなどで活躍。その後、テレビや映画にも進出し、フランク・シナトラやビング・クロスビーと並ぶ大スターに。60年代に大ヒットしたミュージカル番組「ペリー・コモ・ショー」は日本でも放送され、日本のショー番組に影響を与えた。第1回米グラミー賞(58年)の男性ポップ・ミュージカル賞にも輝いた。

レコード売り上げは1億枚以上を記録し「恋のとりこ」や「ウォンテッド」などがスタンダードナンバーに数えられている。93年3月に東京で公演するなどたびたび来日、日本にもファンが多い。《共同通信》



5月12日 その日のできごと(何の日)