平成1904日目

1994/03/26

この日のできごと(何の日)

【第66回選抜高校野球大会】金沢・中野真博投手が完全試合

第66回選抜高校野球大会は26日、甲子園球場で開幕、開会式のあと、1回戦3試合を行った。石川県の金沢は第3試合で島根県の江の川と対戦、エースの中野真博投手(17)が完全試合を達成、3−0で快勝した。春の甲子園での完全試合は昭和53年に松本稔投手(群馬・前橋)が比叡山(滋賀)相手に達成して以来、16年ぶり2人目で、夏の甲子園ではまだ記録されていない。

中野投手はスタートから落ち着いた投球をみせ、変化球のコントロールが特によく、江の川打線をほとんど内野ゴロに打ち取った。守備陣も難しい打球を軽快にさばくなど、金沢の看板である守りの野球を見事に展開した。また、中野投手は攻撃でも四番打者として、五回に貴重な追加点となる2点タイムリー打を放った。金沢の春の甲子園での初戦突破はベスト8まで進んだ平成2年以来、4年ぶり4度目である。

中野投手 八回と九回は自分がマウンドに立っていることが分からなかった。江の川の打線は怖かったが、気持ちで負けないように一人ひとり、緊張して投げたのが良かったと思う。(完全試合の記録よりも)チームが一つ勝てたことの方がうれしいです。《共同通信》

甲子園球場で26日開幕した第66回選抜高校野球大会で大会史上2人目の快挙となる完全試合を達成した金沢・中野の投球内容は三振6、内野ゴロ17、内野邪飛球1、外野飛球3で投球数は99で、直球にスライダー、カーブを交え、制球が抜群によかった。金沢のほか、高田商(奈良)、神戸弘陵(兵庫)の近畿勢が2回戦へ勝ち進んだ。《共同通信》

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【細川護熙首相】韓国・金泳三大統領と会談

細川首相は26日午前、東京・元赤坂の迎賓館で韓国の金泳三大統領と2回目の首脳会談を行った。大統領は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核開発問題に関連し「韓国は北朝鮮の国際社会での孤立を願っているわけではない。ボールは北のコートにある。(国連での)制裁が実施にいかないで済むことを願っている」と強調、制裁に慎重姿勢を示す一方で、引き続き日米韓3国が協調していく決意を重ねて示し、首相も同調した。

日韓の経済問題で、両首脳は「輸出入の拡大均衡」による発展が重要との認識で一致した。大統領は朝鮮半島情勢について、北朝鮮が2月3日から軍事演習を行った事実を認めながらも「異常な動きは見られない」と説明。韓国の国内情勢についてはの国民の軍への信頼は揺るぎなく、米韓安全保障もある。証券市場や国民に動揺がないなどを挙げ、不測の事態でも万全な態勢にあることを強調した。

さらに国連安保理の動向について大統領は「初めから制裁ではなく、北朝鮮の査察受け入れ、南北協議の促進を求める内容になる」との見通しを示した上で、制裁が現実となる前に北朝鮮が柔軟な対応を取るよう促した。

細川首相と金泳三大統領は首脳会談終了後、迎賓館で共同記者会見に臨んだ。両首脳は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核開発疑惑について、日本、韓国、米国に加え中国を含めた緊密な協力によって解決を目指す考えを強調した。また首脳会談を通じて日韓両国が経済、文化、社会などあらゆる分野で「多元的な善隣関係を築く」(大統領)との合意を明らかにした。 細川首相は韓国の国連安全保障理事会非常任理事国入り問題について「わが方としてよく検討させていただきたいと申し上げた」と述べ、日本政府として前向きに対応する考えを示唆した。《共同通信》

【自民党・河野洋平総裁】「細川首相退陣要求も」

自民党の河野総裁は26日午後、石川県知事選応援のため訪れた金沢市内で記者会見し、細川首相の佐川急便からの1億円借り入れ疑惑への対応について「どうしても資料を出さないということであれば、立法府としては行政府の責任者にこれ以上行政を任せられない。対応によっては首相に責任をとっていただけねばならない」と述べ、新資料提出や関係者の証人喚問要求で進展が見られない場合は細川首相の退陣を求める考えを明らかにした。《共同通信》

【山口誓子さん】死去

現代の俳句に新風を吹き込み、戦後は句誌「天狼」を半世紀近くにわたって主宰した、俳壇の長老で文化功労者の山口誓子氏が26日午後4時半、急性呼吸不全のため神戸市灘区の病院で死去した。92歳。京都市出身。

旧制三高、東大時代から本格的に俳句を始め、高浜虚子の「ホトトギス」を舞台に活躍。昭和初期、水原秋桜子、阿波野青畝、高野素十とともに「4S」と称され、黄金時代を築いた。昭和10年代、秋桜子主宰の「馬酔木」に参加して、スポーツやダンスホールなど都市生活に素材を広げた。戦後の23年、西東三鬼らと「天狼」を創刊。人間の生命に根ざした「根源俳旬」を提唱、「俳句は日本語の見本市。正しい言葉を使って作るよう」説いて、多くの支持者を得た。

代表句「海に出て木枯(こがらし)帰るところなし」など句碑は全国に170を超える。句集に「凍港」「炎昼」「青女」「誓子自選句集」など。昭和51年勲三等瑞宝章、62年芸術院賞受賞。平成4年に文化功労者となった。《共同通信》

【片岡仁左衛門さん】死去

上方歌舞伎の最長老役者で、日本芸術院会員、人間国宝の片岡仁左衛門さんが26日午前1時50分、老衰のため、京都市右京区の自宅で死去した。90歳。東京都出身。

仁左衛門さんは、昨年11月1日に始まった京都・南座の顔見世興行に出演中、疲労が重なって体調を崩し12月23日から休演。今年正月の東京・歌舞伎座の「猿若祭初春大歌舞伎」も休演した。顔見世興行の「八陣守護城」の佐藤正清役が最後の舞台となった。

上方歌舞伎最古の名門松島屋に育ち、東京、大阪、京都と三都に住んだ経験から上方の“風”、江戸の“型”と東西の歌舞伎の芸風に精通した。晩年は緑内障で目を悪くし、歩行が困難だったが、最高齢の現役役者として舞台に重きをなした。また「仁左衛門歌舞伎」「若鮎の会」を結成、上方歌舞伎復興のため私財を投じて自主公演した。

11代目片岡仁左衛門の三男に生まれ、明治37年、2歳のとき京都・南座で本名のまま初舞台を踏んだ。昭和4年に4代目片岡我當を襲名し、戦後の26年大阪歌舞伎座「新口村」の忠兵衛などで13代目仁左衛門を継いだ。「誠実な人柄が誠実な舞台を作っている」と評され、「新口村」の孫右衛門、「佐太村」の白太夫、「夏祭」の三婦、「阿古屋」の重忠などで優れた演技を発揮した。特に中年に入ってから円熟味を増し、「菅原」の菅丞相など枯淡な芸で観客を魅了した。

47年に人間国宝(重要無形文化財)、56年に日本芸術院会員、平成4年に文化功労者に選ばれ、大阪芸術賞、芸術選奨、京都府、市文化功労賞、勲三二等瑞宝章などを受けた。歌舞伎の我當、秀太郎、孝夫の片岡三兄弟、新劇女優の片岡静香さんと子宝にも恵まれた。《共同通信》



3月26日 その日のできごと(何の日)