平成1666日目

1993/07/31

この日のできごと(何の日)

【都市対抗野球】日本石油、7年ぶり7度目の優勝

第64回都市対抗野球大会最終日は31日、東京ドームで日本石油(横浜市)ー日本通運(浦和市)の決勝を行い、日本石油が7年ぶり7度目の優勝をした。

日本石油は八回に谷口の6号本塁打で5−4としたが、九回裏に失策で同点とされた。だが延長十一回、二死一、二塁から大久保、葛城の連続適時打で勝ち越し、粘る日本通運を7−5でようやく振り切った。《共同通信》

昭和64年1月1日〜このサイトをご覧頂いている日の一週間前まで、すべての日の「何らかの」できごとを記しています。

情報量が少ない日は随時加筆中です。

引用記事は名前、住所など一部修正の上、抜粋してあります。

外国の方のお名前、地名などは現時点で一般的に通じるものに書き換えています。(例・ロシアのプーチン氏はかつてプチン氏と表記されていました)

古い記事の多くは「書き写し」のため、誤字脱字が多数あります。見つけ次第修正しています。

このサイトについて

【Jリーグ第2ステージ】第2節

サッカーのJリーグ第2ステージ第2節は31日、茨城県のカシマスタジアムなどで5試合を行い、第1ステージの覇者、鹿島はPK戦の末、5−3で名古屋を下し、2連勝した。市原も横浜Fに3−2でり競り勝ち、2勝目を挙げた。

新外国人選手ビスマルクを加えた川崎は、武田、三浦のゴールで大阪に2−0で勝ち、浦和も0−0からのPK戦4−2で強豪の横浜Mを破った。清水は1−1の延長前半2分、長谷川の決勝点で広島を下した。《共同通信》

【米価審議会】米価据え置きを決定

米価審議会は31日、1993年産米の政府買い入れ価格(生産者米価)を現行価格60キロあたり1万6392円に据え置くとの政府諮問について、やむを得ない、引き上げ、引き下げの三論を併記した答申をまとめ、田名部農相に提出した。

政府はこれを受け、同日の持ち回り閣議で2年連続の据え置きを正式に決めた。《共同通信》

【自民党・河野洋平総裁】後藤田氏と意見交換

自民党の河野新総裁は31日、後藤田副総理兼法相を訪ねて意見交換するなど、党三役を軸とする新執行部人事の構想を練った。具体的な人事に着手するには至らなかったが、下野を前提に①国会論戦②政治改革③早期の総選挙ーに対応できる「打撃中心のオーダーを組む」との基本方針を固めた。

具体的人事は「三塚幹事長」に強い意欲を示す三塚派の動向など党内情勢を見極めた上で、週明けの8月2日中に一気に決める方向。「脱派閥」を目指す河野氏と党内各派のあつれきが表面化する可能性もある。

河野氏はまた、「野党・自民党」としての攻撃的な布陣の一環に「シャドーキャビネット(影の内閣)」を置くことも検討課題としたい考えだ。

後藤田氏との会談では政治改革実現に向け清新な人材を登用すべきだとの助言を受けたとみられる。河野氏周辺には後藤田氏を党副総裁で迎え、「政治改革の重し」としたいとの意見があるが、この日は直接的な要請はなかったもようだ。

河野総裁は後藤田氏のほか、宮澤派の粕谷茂、相沢英之、近藤元次の各氏とも協議。三塚派の動向に絡んで、福田元首相と意見交換した柏谷氏の報告を聞くなど党内情勢の把握に努めた。《共同通信》

【自民党・河野洋平総裁】小沢氏の疑惑解明迫る

自民党の河野総裁は31日の共同通信とのインタビューで、「細川連立政権」の軸である新生党に関し、「政治とカネにまつわるスキャンダラスな問題として、割合近い過去で、解明されずに今なお議論が残っている過去がある」と述べ、佐川急便事件に絡み小沢代表幹事に対し国会などで疑惑解明を迫る考えを示した。同時に「この(疑惑)解明に最も熱心だった社会党がどうしておられるのかも解明したい」と述べ、小沢氏の証人喚問を求めていた社会党の不明確な姿勢を批判した。

また党改革に関連して「派閥による議員の行動、発言の制限、ポスト配分はできるだけなくしていかないといけない」と述べ、派閥の弊害を除去し、適材適所の人材登用を目指す考えを強調した。《共同通信》

【へルギー国王・ボードワン一世】死去

へルギー国王のボードワン一世が31日夜、保養先のスペイン南部のモトリルで心臓発作のため死去した。62歳。昭和天皇の死去後、世界で最も長い元首在職者の一人だった。天皇家との親交は深く、9月初めの天皇訪欧でも、ベルギーを公式訪問する天皇と会談する予定だった。葬儀などの日程は未定。

子どもがいないため筆頭王位継承者は、弟アルベール殿下の長男フィリップ殿下(33)。

二度の世界大戦でドイツの侵略を受けたベルギーーでは戦後、レオポルド三世が復位しようとしたが、対ドイツ協力問題で反発を受け、子息のボードワン一世が1951年7月17日に即位した。90年4月、国会が中絶法を可決したが、敬けんなカトリック教徒の国王は署名を拒否して42時間退位した後、復位し話題となった。

北部のオランダ系フラマン人と南部のフランス系ワロン人との民族対立では、常に解消に向けたまとめ役としての役割を担い、国内の政治危機でも与野党に妥協を要請するなど政治的任務も負っていた。

度々訪日し、89年2月の大喪の礼、90年11月の即位の礼では夫妻で訪日し参列。昨年も韓国への公式訪問の際、日本を非公式に訪れた。昭和天皇をはじめ、天皇家との親しい交際は有名で、天皇も皇太子時代、非公式訪問を含めベルギーを6回ご訪問。皇太子も英国留学時代、ベルギーを訪問された。《共同通信》



7月31日 その日のできごと(何の日)