平成1638日目

平成5年7月3日(土)

1993/07/03

【連合・拡大選対委員会】非自民8首脳がそろい踏み

日本新党の細川、新党さきがけの武村、新生党の羽田各党首・代表に社会党の山花、公明党の石田、民社党の大内各委員長ら既成5野党・会派の首脳を加えた8首脳が3日午前、都内のホテルで開かれた連合の拡大選対委員会に出席、初めてそろい踏みをした。

連合の山岸会長はあいさつの中で「8首脳に立場の相違はあるが、それを乗り越え一堂に会した意義は大きい。各党の個性を生かしつつ選挙協力の実を上げて、非自民連立政権を樹立してほしい」と訴えた。

これに対し各首脳は、そろい踏みの意義を強調しながらも、武村氏が「既成野党は増税は何でも反対など耳ざわりのいい話が多過ぎる」と注文を付けるなど、政策の違いも強調した。また羽田氏が政権党の中枢にいた利点を強調したのに対し、出席した連合下の産別組合代表から「反省が足りない」との厳しいやじも飛んだ。

あいさつの中で山花氏は「3新党と一緒の会合に出るのは歴史的」と述べ、石田氏は「選挙は競争であり、各政党同士の批判も出てくるが、新たな政治をつくる目標は同じ」と強調。社民連の江田代表)が「8党・会派が整理される時代が来る」として近い将来の統一を呼び掛けた。

これに対し羽田氏は「このままでは議会制民主主義も失うと行動したことを理解してほしい。大同団結はできる」と述べた。

細川氏は日本新党が新党ブームのリード役であることを誇示し「新党誕生で不安定な政治と言われるが、心配する必要はない」と述べ、既成野党に対し独自性を堅持する姿勢を示した。《共同通信》

【日本新党、新党さきがけ】「新・新党」感触まずます

日本新党の細川護熙代表と新党さきがけの武村正義代表は3日昼、都内のホテルで会談し、①衆院選で緊密な選挙協力を行う②両党の政策すり合わせのための協議機関を設置する—の2点で合意した。会談後、武村氏は「新・新党」結成問題について「婚約はまだ早い」として慎重な姿勢を示したが、細川氏は「その辺は善意に解釈している」と語っており、政策協議機関の設置は、選挙後の両党の合流を念頭に置いたものとみられる。

一方、新政権への対応については、選挙結果をにらんで選挙後改めて両代表で協議することになった。選挙協力についても両党は、競合しない全選挙区で、協力態勢を取る方針。北海道1区や滋賀全県区、大分2区など60程度の選挙協力を確認する見通しだ。

3日までに日本新党の公認、推薦は55選挙区、さきがけは15選挙区。このうち競合区は千葉4区など4選挙区のみで、協力しやすい形となっている。ただ、両党とも全国的な組織基盤が弱いため、本格的な協力態勢を組むのは難しく、イメージアップ効果に最大の狙いがある。

選挙後の新政権への対応については両党とも「政策により是々非々を貫く」(細川代表)と、場合によっては自民党政権であっても「閣外協力」の姿勢をにじませている。しかし、これに対し新生党や野党側から「自民党政権の延命に手を貸す結果となる」との批判が出ていることもあって、この日の協議は意見交換にとどめた。《共同通信》

【日本新党・細川護熙代表】自民改革派とは連立も

日本記者クラブ主催の公開討論会(2日目)が3日午後、新生党の羽田党首と新党さきがけの武村、社民連の江田、日本新党の細川の3代表が出席して東京・内幸町の同クラブで開かれた。

細川氏は、自民党が後藤田副総理兼法相のような改革派を擁立した場合の対応について「そういう人ばかりなら素晴らしい。(連立する)可能性が全くないとぼ言えない」と述べ、自民党との連立も視野に入れていることを明らかにした。これに対し、武村氏は「次の選挙までは自民党との連立を考えないで行こうというのが党内の雰囲気だ」と、自民党との連説を否定し「新・新党」結成が取りざたされている両党間に連立問題で微妙な違いのあることが浮き彫りになった。

一方羽田氏は自民党との連立を否定した上で「一党支配打破を基本にしていけば社会党も(自衛隊の)現状を認めているわけだから、不安定にならずにやっていける」と強調、社会党との基本政策での合意は可能との見方を示した。江田氏も「非自民内閣をつくる。責任がある」と述べた。

細川氏は「連立も閣外協力も考えていない」としながらも「自民党の再分裂も考えられるし、どういう顔触れになるのか。その中で良識的といわれる人が主導権を握るのか見極めなければならない」と、自民党との連立に含みを残した。

細川氏は「テーマによって是々非々で臨む」とし、武村氏も「全面的に反自民でいく考えはない。(政策面では)国益を基本に真剣に対処していく」と述べ、政治課題ことに自民党と連携の可能性があることを明らかにした。

【宮沢喜一首相】迎賓館を下調べ

宮沢首相は3日午後、先進国首脳会議(東京サミット)を目前に控え、会場となる東京・元赤坂の迎賓館を訪れ、下調べをした。正面玄関に到着すると早速、サミット事務局の職員から首脳同士の写真撮影の説明を受け、自ら撮影場所となる玄関前階段に立ち「手は振るの?」などと質問、やや恥ずかしそうな表情ながらも熱心に説明を受けた。

この後、首相は首脳会合が開かれる部屋に移り、参加国の国名を表示したプレートが置いてある円卓を見て「これくらい(の広さ)ならいいですね」と感想を一言。カメラマンから「議長席に座ってもらえませんか」と促されると一瞬、けげんな様子をしながらも、いざ座ると、まんざらでもない表情で写真撮影に応じていた。《共同通信》

【テニス・ウィンブルドン選手権】シュテフィ・グラフ選手、5度目の優勝

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テニスの第107回ウィンブルドン選手権第12日は3日、ロンドン郊外のオーールイングランド・クラブで100回目を迎えた女子シングルス決勝が行われ、第1シードのシュテフィ・グラフ(ドイツ)が第8シードのヤナ・ノボトナ(チェコ)に7−6、1−6、6−4で競り勝って3年連続5度目の優勝を果たし、賞金27万5000ポンド(約4600万円)を獲得した。

グラフは通算74個目のタイトルで、四大大会の優勝回数13はビリージーン・キング(米国)を抜いて史上5位。ウィンブルドン選手権の優勝回数は史上7位夕イとなった。

グラフは第1セットのタイブレークを8−6で奪い、第2セットは簡単に失ったものの、最終セット、1−4から盛り返して逆転し、サーブアンドボレーのノボトナを振り切った。

両者の対戦成績はグラフの6連勝で17勝3敗。ノボトナは1991年全豪オープンに次いで2度目の四大大会決勝で初制覇を逃した。《共同通信》

【Jリーグ第15節】鹿島V王手

サッカーのJリーグ第15節は3日、茨城・カシマスタジアムなどで5試合を行い、首位の鹿島アントラーズは2位の横浜マリノスを3−1で下し、5連勝で12勝3敗とし、2位の横浜Mに3試合を残して3勝差をつけた。鹿島は残り試合で1勝すればよく、また3連敗しても得失点差で2位以下に3点差をつけており、優勝はほぼ確実になった。

3位のヴェルディ川崎と横浜フリューゲルスは0−0からPK戦となり、川崎が3−1で勝った。川崎も9勝6敗ながら、得失点差で3位。

清水エスパルスは長谷川の2得点などからジェフ市原に3−1で勝ち、ガンパー大阪は2−2からの終了3分前、永島が逆転ゴールを決めて名古屋グランパスに勝った。浦和レッズは1−0でサンフレッチェ広島を破り、今季3勝目。《共同通信》

【ハイチ】民政復帰で調印

ニューヨークで行われていたハイチの民政復帰交渉で、追放され、米国滞在中のアリスティド大統領とハイチの実権を握るセドラ軍司令官が3日、国連事務総長特使の示した大統領の復権提案に合意、調印した。

国連が発表した合意書は①国連の経済制裁を中断する②セドラ司令官ら軍指導部が恩赦を得て辞任、権力を放棄し、国連の監視下で軍が再編成される②大統領が10月30日に帰還するなどの内容となっている。

セドラ司令官は3日午前に早々と提案に署名したが、アリスティド大統領は1991年9月のクーデターに関与した軍幹部全員の追放を要求し、大統領の復権までは経済制裁を中断すべきでない、と一時主張したため、署名が深夜までずれ込んだ。

ハイチでは90年12月の初の民主選挙で、アリスティド大統領が選出されたが、セドラ司令官が91年9月にクーデターを起こし大統領を追放。米国、国連などは司令官が実権を握る政権を認めず、安全保障理事会決議による石油と武器の禁輸、ハイチの在外資産凍結などの対ハイチ経済制裁が6月23日から発効していた。

27日から始まった交渉には、カプト特使(元アルゼンチン外相)のほか、仲介役として米国務省当局者、ベネズエラの国連大使、フランス政府当局者も参加。司令官は国連の経済制裁の早期解除を求め、特使案に積極的に応ずる姿勢を見せたが、大統領側は民政復帰の保証を要求し、交渉が長引いた。《共同通信》

【YKK・吉田忠雄社長】死去

ファスナー・アルミ建材の世界的なメーカーとして知られるYKK吉田工業の創業者で社長の吉田忠雄氏が、3日午前0時52分、東京・新宿区の慶大医学部付属病院で肺炎のため死去した。84歳。魚津市出身。

昭和九年、独力で吉田工業の前身であるファスナー製造販売会社サンエス商会を創業、「他人の利益を図らずして自らの繁栄はない」という独特の経営哲学「善の巡環」を掲げ、実践し、海外45力国に62工場、184事業所で世界の50%を超す世界一のファスナーメーカーに育てた。

昭和34年にアルミ建材事業にも着手、国内有数の企薬に育て、日本を代表する企業の指導者として活躍した。黒部市、魚津市各名誉市民、昭和52年に富山新聞文化賞特別賞を受賞した。《北國新聞》



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