1992 平成4年8月9日(日)のできごと(何の日)

平成1310日目

平成4年8月9日(日)

1992/08/09

【雲仙・普賢岳】活発な火山活動が続く

台風10号による災害から一夜明けた長崎県雲仙・普賢岳は9日、火口南東側の赤松谷方向を中心に規模の大きな火砕流が発生するなど、依然として活発な火山活動が続いた。

8日の火砕流で民家など16棟が全焼した深江町上大野木場地区を9日午前、上空から観測した九州大島原地震火山観測所の太田一也教授は「火砕流の本体がこれまでの到達場所よりかなり下の方まで伸びており、赤松谷方向の火砕流としては過去最大の規模」との観測結果を明らかにした。《共同通信》



【バルセロナ五輪】マラソン・森下広一選手が「銀」

日本の男子マラソンに24年ぶりのメダリスト—バルセロナ・オリンピックのフィナーレを飾る男子マラソンは9日、バルセロナ市郊外の港町マタロから五輪スタジアムまでの片道コースで行われ、森下広一(24)(旭化成)が2時間13分45秒で銀メダルを獲得。1968年のメキシコ大会で君原健二が2位となって以来、24年ぶりに日本の男子マラソンにメダルをもたらした。

優勝は韓国の新鋭、黄永祚(22)で2時間13分23秒。レースは33キロから森下と黄の一騎打ちとなったが、40キロ付近の下り坂で黄がスパートして森下を振り切った。1936年のベルリン大会で当時日本代表として出場した孫基禎選手が金メダルを獲得したのを除けば、韓国がマラソンで優勝したのは初めて。

日本勢は中山竹通(ダイエー)が4位、世界選手権優勝の谷口浩美(旭化成)も22.5キロ付近の給水で転倒し、シューズが脱げるアクシデントがありながら8位に食い込む健闘。悲願の金メダルには届かなかったが、3人全員が入賞した。

史上最多の174の国と地域が参加した第25回夏季オリンピック・バルセロナ大会は9日、最終種目の男子マラソンで16日間にわたる競技をすべて終え、午後10時(日本時間10日午前5時)から、オリンピック・スタジアムで閉会式が行われ五輪旗がバルセロナのマラガイ市長」から次期開催地のジャクソン・アトランタ市長に手渡された。《読売新聞》

【長崎】47回目の原爆忌

長崎は9日、47回目の原爆忌を迎えた。長崎市主催の平和祈念式典は、平和公園の地下駐車場建設工事のため、会場を松山町の市営ラグビー・サッカー場に移して行われ、約2万5000人が犠牲者のめい福を祈り、平和へのいを新たにした。宮沢首相も出席した。首相の出席は昭和51年の故三木首相以来、6回目。

本島等市長は平和宣言で「20世紀中に地球上から核兵器をなくそう」と訴え、軍事費削減で生じる余裕を、飢餓や環境破壊などの解決に充てるよう呼びかけた。同時に「アジア・太平洋への侵略・加害の歴史」を見つめ、「日本独自の国際貢献」を果たすよう求めた。《読売新聞》

【宮沢喜一首相】靖国神社「私的」参拝に含み

宮沢喜一
https://www.kantei.go.jp/

宮沢首相は9日昼、長崎市の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典後に同市内のホテルで会見し、靖国神社への参拝問題について「私は閣僚をしていた時に何度も私的な立場で参拝している。適当な時期に、私的な立場で英霊に対して追悼の気持ちを表したい、という気持ちは変わっていない」と述べ、時期をみて私人の立場で参拝することに含みをもたせた。《共同通信》

【大槻文平さん】死去

元日経連会長で臨時行政改革推進審議会(新行革常)前会長の大槻文平氏(三菱マテリアル最高顧問・相談役)が、9日午前0時17分、急性心不全のため、東京都港区の東京慈恵会医科大付属病院で死去した。88歳だった。

大槻氏は、戦後の労使交渉の中で、長期にわたって経営者側のリーダーをつとめ、昭和62年5月に日経連会長を退いた後も大きな影響力を持ち続けていた。また、62年4月からは新行革審会長として行改革推進に手腕を振るう一方、内需拡大に向けた積極財政への転換や、竹下政権の表看板となった地価対策の筋道をつけるなど、大きな足跡を残した。同年11月には故稲山嘉寛・元経団連会長の後を継いで読売国際経済懇話会理事長に就任、財界の長老として幅広い活動を続けていた。

36年に紺綬褒章、39年に藍綬褒章、48年に勲一等瑞宝章、五十六年に勲一等旭日大綬章をそれぞれ受章している。

大槻氏は、明治36年9月、宮城県伊具郡丸森町に生まれ、旧制一高を経て昭和3年、東大法学部を卒業。三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社し、38年に社長になった。48年三菱鉱業セメント社長、51年会長に就任した。この間、一貫して人事・労務畑を歩き、石炭が石油にとって代わられた三十年前後から始まる。“エネルギー革命”では、鉱山の開山に伴う人員整理に大ナタを振るった。

私生活では、「ハンブル・ライフ」(つましい生活)をモットーに、酒もたばこもやらなかった。しかし、平成2年、行革審会長を鈴木永二・前日経連会長に引き継いだ後は、財界活動の一線から退き、今年6月からは同病院で入院生活を送っていた。《読売新聞》



8月9日のできごと

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