平成1239日目

1992/05/30

この日のできごと(何の日)

【伊丹十三監督】退院

東京・世田谷の自宅前で襲われ、重傷を負った映画監督・伊丹十三さん(59)が30日、新宿区の東京女子医大病院を退院し、東京・有楽町の東宝本社で記者会見した。事件発生以来8日ぶりに姿を見せた伊丹さんは、捜査に配慮して、犯行の状況や犯人像についてのコメントは避けたが、「今後も自分の信条に従って作っていく」と、映画製作への意欲を力強く語った。

午後2時からの会見には、妻で女優の宮本信子さん(47)が付き添い、映画「ミンボーの女」の製作会社イタミ・フィルムズ」の玉置泰社長(43)が同席した。伊丹さんは、頭や手の傷を白いネットや包帯で覆い、ステッキを頼りに歩く痛々しい姿だったが、「大勢の皆さんの励ましやお見舞いに勇気づけられ、大きな心の支えになりました」と、しっかりした口調であいさつした。

事件の状況については、「逃走する車を追いかけたが、ナンバーを覚えたあたりで逃げられた」などと述べるにとどまり、詳しい状況や犯人像は「(警察からの指示もあり)いまはお話しできない」と答えた。

上映中の映画「ミンボーの女」と事件との関係を問われると、「事前に(襲撃の)可能性がゼロとは思っていなかった」。しかし、映画製作への影響に対しては、「自分の信条で作った作品だから、後悔する気持ちはない。映画は人間の自由がテーマであり、今後も同じように作っていく」と語った。

会見は約25分で終わったが、約150人の報道陣の身元を一人ずつチェックする厳戒ぶりだった。《読売新聞》

昭和64年1月1日〜このサイトをご覧頂いている日の一週間前まで、すべての日の「何らかの」できごとを記しています。

情報量が少ない日は随時加筆中です。

引用記事は名前、住所など一部修正の上、抜粋してあります。

外国の方のお名前、地名などは現時点で一般的に通じるものに書き換えています。(例・ロシアのプーチン氏はかつてプチン氏と表記されていました)

古い記事の多くは「書き写し」のため、誤字脱字が多数あります。見つけ次第修正しています。

このサイトについて

【カンボジア】ポル・ポト派、UNTAC・明石代表を足止め

明石康国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)特別代表は30日、来月13日に予定される停戦第二段階(武装動員解除開始)を協議するため、カンボジアータイ国境地帯の反政府勢力三派の各軍事拠点を訪れたが、ポル・ポト派の拠点、バイリンから同市外のポト派支配地域へ向かおうとしたところで、同派兵士らに阻止された。

これに対し明石代表は「(13年間に及ぶ内戦を終結させた)パリ協定に対する重大な違反だ。国際的孤立につながる」として、この事件をガリ国連事務総長に報告するとともに、強く同派の姿勢を非難した。

明石代表はさる26日の最高国民評議会(SNC)会合で、ポル・ポト派代表のキュー・サムファン氏に①UNTAC要員の完全かつ無制限の行動の自由を認めること②中部のコンポントム州などでのこれ以上の停戦違反をやめること③兵力、武器、弾薬について詳細な情報を提供することなど12項目の申し入れを行っている。

しかし、今回の“行動阻止”で、ポル・ポト派がこの申し入れを順守する意思のない実態が明らかになった。

明石代表はこれまで、遅くとも来月5日に開かれるSNC会合までにポル・ポト派から武装動員解除に協力する回答を得たいとしていたが、これで予定通り第二段階に移行することはほぼ絶望的との見方が有力となった。《読売新聞》

【比・大統領選】ラモス氏が勝利声明

フィリピン大統領選で当選を確実にしているフィデル・ラモス前国防相(64)は30日午前11時半(日本時間同午後0時半)から記者会見し、開票率75%の時点で2位の候補に80万票を超す差をつけたことを踏まえ、「国会による当選者の正式宣言が待たれている状況だが、私は今、大統領選の勝利を宣言する」との勝利声明を出した。

声明の中でラモス氏は次政権の課題として①国民和解の推進②より権威のある政権樹立③国会再建の道筋をつける—の3点を挙げた。《読売新聞》

【渡辺美智雄外相】PKO法案「粛々と成立」

渡辺外相は30日午後、群馬県桐生市内で講演し、国連平和維持活動(PKO)協力法案の参院国際平和協力特別委員会での採決について「自民、公明、民社、場合によっては連合も含めて粛々と忍耐強くやっていきたい。多少時間が長くなるかもしれないが、PKO法案は成立していくものだと思う」と強調した。《共同通信》

【井上光晴さん】死去

虐げられる庶民の立場に立ち、戦後社会を告発し続けてきた作家の井上光晴さんが30日午前2時58分、ガン性腹膜炎のため東京都調布市内の病院で死去した。66歳だった。

中国・旅順生まれ。幼年時に両親と生別、九州に引き揚げ、高等小学校中退後は、炭鉱などで働いた。敗戦の翌年、日本共産党に入党したが、昭和25年、専従党員の苦悩と矛盾を訴えた処女作「書かれざる一章」を発表。スターリン主義批判の先駆的作品といわれたが、当時の党から批判を受け、28年離党した。

31年に結婚、上京後は、皇国少年だった自己の戦争体験を問い直す「ガダルカナル戦詩集」をはじめ、長編「虚構のクレーン」「死者の時」などを発表、38年、長崎の原爆被災者と被差別部落をテーマにした「地の群れ」で文学的な地歩を築いた。その後も現代の混沌とした社会相を浮き彫りにした「心優しき叛逆者たち」や「憑かれた人」「明日」などを精力的に発表した。

45年から個人編集の季刊誌「辺境」を刊行(第三次で終刊)。52年には草の根の文学を、と佐世保で講座「文学伝習所」を開設、全国的な運動に広げるなど、行動する作家でもあった。

平成元年夏、S字結腸の腫瘍の手術のため1か月入院、その後肝臓に転移したため、2年7月末、東大病院で肝臓を4分の3切除する手術を受けていた。

昨年10月、自宅療養中にインタビューを受けた際には、ガン体験で「人間の苦しみについて、ずうっと考えてきたことが、上っ面というか観念的なことに気づきました。だから今、書きたいことが増殖している。反人間との本当の戦いは始まったばかりだ」と、文壇三大声といわれる大声で語っていた。その後、再び入院。

闘病中も小説を発表し続け、1か月ほど前も病床で文学賞の選考作業をするなど、最後まで文学の志を持ち続けていたが、数日前から容体が悪化していた。

長女、荒野さんも作家。《読売新聞》



5月30日 その日のできごと(何の日)