平成940日目

平成3年8月5日(月)

1991/08/05

【本田宗一郎さん】死去

町の修理工場から身を起こし、一代で「世界のホンダ」を築き上げた本田技研工業の創業者、本田宗一郎最高顧問が5日午前10時43分、肝不全のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した。84歳だった。

静岡県天竜市の鍛冶屋の長男に生まれた。高等小学校卒業後に東京の自動車修理工場んに勤め、オートバイや自動車の技術を習得した。

昭和21年に今日の本田の礎となった本田技術研究所を開設、自転車に取り付ける補助エンジンを造りヒットした。24年に初めてのオートバイ「ドリーム号」の試作に成功、二輪車メーカーとして発展した。38年には独創的なスポーツカー「S500」で自動車市場にも参入、その後の大衆乗用車「シビック」の成功で四輪メーカーとしての基盤を固めた。《共同通信》

裸一貫から会社を興し、日本の戦後復興と軌を一に「世界のホンダ」をつくり上げた本田技研工業最高顧問の本田宗一郎さんが5日、84年の独創的な生涯を閉じた。奔放な人柄そのままに、背広より油まみれの作業服を好んだ本田さんの人生は、「開発は99%以上、失敗の連続」という技術者の一生だった。

鍛冶屋に生まれた本田さんは、子供のころから大の機械好き。小学2年の時、村で初めての自動車を目にし、こぼれ落ちた油のにおいを吸い込んで「いつか自動車を作ってみたい」と夢を抱いた。

16歳で東京の自動車修理工場に奉公し、22歳で浜松にのれん分け。木製に替えて考案した鋳物製の車輪スポークで成功を収めた。破天荒な青年実業家として自作のレースカーで大会に出場、事故でひん死の重傷を負ったのもこのころ。後年も自家用機が3度墜落、助かって運の強さを見せた。

自転車にエンジンをつけたモーターバイクから本格二輪のドリーム号、さらに普及車の「カブ号」と、矢つぎ早のヒットを飛ばし、「大衆は優れた物をかき分け、選び出す力を持っている」。昭和30年代、マン島レースでの優勝を足がかりに「世界のホンダ」に躍進し、軽トラックT360で、念願の自動車業界にも進出。低公害エンジンを生んだが、「若いイキのいい連中にバトンタッチ」と、66歳であっさり引退。引き際のあざやかさで世人を驚かせた。

「需要は、メーカーのアイデアと生産手段でつくり出される」が本田哲学。アイデア本意の製品には国境がないことを強調した。

引退後の同56年、大分県別府市に身障者の働く自動車部品製造会社を設立。授産施設にも出資した。

社是の第一条に「常に夢と若さを保つこと」と掲げ、「機械いじりは私の道楽」が、最後まで口癖だった。《読売新聞》

【海部俊樹首相】所信表明演説

海部首相は5日午後、衆参両院の本会議で所信表明演説を行い、小選挙区比例代表並立制導入を柱とする政治改革実現への決意を強調、「改革の痛みを乗り越え」て「ぜひとも実現しなければならない」などと政治改革関連三法案の成立に向け、各党、議員の協力を要請した。

証券不祥事については「誠に遺憾」と述べ、再発防止策として(1)取引一任勘定取引や事後の損失補てん禁止を含む証券取引法改正案を今国会に提出(2)証券会社に対する検査体制の充実、強化に取り組むことを示した。《共同通信》

【韓国】国連加盟申請

韓国政府は5日午後(日本時間6日未明)、国連に加盟を申請した。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は7月8日申請ずみで、国連安保理はこれを受けて6日、非公式協議を開き資格審査を行い、8日午前(日本時間同日深夜)にも、加盟勧告決議案を採択する見通しだ。9月17日の国連総会で、同決議を承認、両国の同時加盟が正式に決まる。

韓国国連オブザーバー代表部の盧昌熹大使は5日午後、国連本部にペレス・デクエヤル事務総長を訪れ、加盟申請書を手渡した。同大使はこの席で、両国の国連加盟が、①両国の国際的地位を高めるものであり、東西両ドイツがたどったようにやがては平和的統一を達成する第一歩となる②(あらゆる国は国連への加盟を認められるべきであるとする)普遍性の原則を実行したものである③東西冷戦終結のシンボルである―との3点を強調した。

同大使はまた会見で、同時加盟の目標が南北関係の改善にあることを指摘、国連を舞台に北朝鮮と定期協議(大使レベル)開催を北朝鮮に重ねて呼びかけた。

安保理は、15メンバー国で構成する加盟審査委員会で資格審査を行うが、ほぼ形式的なもので、加盟を総会に勧告する決議案を8日にも採択する。決議は、両国の加盟勧告を併記した一括決議となる見通しだ。《読売新聞》



8月5日のできごと