平成6766日目
2007/07/18
【この日の民主党】
小沢代表「今の時代に対応した行政をつくる」
小沢一郎代表は18日午後、愛媛県愛南町内で街頭演説会を開き、日本のどこに住んでいても、安心して安定した生活ができる仕組みを作り上げると、集まった約600人を超える聴衆、支持者らを前に、民主党の政策を訴えた。
はじめに、この暑い中を足を運んでもらった人たちに向け、温かく、そして力強さを今強く感じていると感謝の気持ちを表した。そして「今日の自由競争、市場主義、強い者のみが勝ち残る生産効率万能主義で、地方(など弱い者)は置いてきぼりにされている」と話したうえで、「日本のどこに住んでいても、安心して安定して生活ができる、こういう仕組みを日本の社会に作り上げると、私たちは主張している」と表明。弱者切り捨ての政治ではなく、弱い者のための政治を行うことが重要だと強調した。
また、「今の政治に対する、あるいは政府に対する不信感がこんなにたくさん国民の皆さんの中に芽生えたことはなかったと思う。一生懸命、真面目に年金保険料を払って、いつの間にか(記録が)なくなってしまった。こんなバカげた行政がまかり通っている。それは、国民の生活、国民に対する意識が欠如しているからだ」と、与党による国民不在の現在の政治状況を厳しく批判した。
さらに、小沢代表は与党による財政再建をあげ、「財政再建の名の元に予算をカットし、削減している。しかし、今の腐りきった制度をそのままにしていては、問題の本質的な解決にはならない。今の時代に対応した制度に変えなくてはならないが、利権やしがらみがあるから自民党では、いくら改革すると言っても、できるわけがない」と指摘し、本当の改革は、利権やしがらみに囚われない民主党でしかできないと話した。
そして小沢代表は、「国民の生活に顧慮しない自民党・公明党の政権に終止符を打って、その流れを変えなくてはならない。皆さんの力で、民主党を政権につかせてもらえれば、国民無視、国民不在の政治を変えることができる。ぜひ、皆さんの大きな支援をいただきたい」と、力強い口調で、民主党の政策と更なる協力を聴衆に訴えた。《民主党ニュース》
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【WBCフライ級タイトル戦】内藤大助選手、3度目の挑戦で初戴冠
世界ボクシング評議会(WBC)フライ級タイトルマッチ12回戦は18日、東京・後楽園ホールで行われ、挑戦者で同級6位の内藤大助(宮田)がチャンピオンのポンサクレック・ウォンジョンカム(タイ)を3-0の判定で下し、新王者となった。ポンサクレックは18度目の防衛に失敗した。
内藤はポンサクレックと3度目の対戦。2002年4月の初対戦は1回TKO負け、05年10月の再戦も7回負傷判定で苦杯。3度目の挑戦で悲願の王座を奪取した。内藤の戦績は31勝(20KO)2敗2分け。ポンサクレックは65勝(34KO)3敗。内藤はポンサクレックに打ち込まれる場面もあったが、序盤から積極的に攻めてペースをつかみ、確実にパンチを当ててポイントを稼いだ。《時事通信》
【会田洋柏崎市長】柏崎原発に事実上の停止命令
新潟県中越沖地震の影響で、東京電力柏崎刈羽原子力発電所で火災が発生するなどした問題で、柏崎市の会田洋市長は18日、東電の勝俣恒久社長と同発電所の高橋明男所長を市役所に呼び、消防法に基づいて発電所内の全基の危険物施設について緊急使用停止命令を出した。
市消防本部の立ち入り調査で損傷の恐れがあったためで、停止期間の期限はないという。消防法では原子炉について直接、停止を命じることはできないが、発電所の施設のために用意された燃料の貯蔵タンクなど危険物施設を停止すれば、事実上、発電所の運転はできなくなるという。《朝日新聞》
【民主党・岡田克也副代表】「増税は公約違反」
民主党の岡田克也副代表が18日、参院選福井選挙区の候補者を応援するため来県し、勝山市内のショピングセンターなど2ヶ所で街頭演説した。安倍政権がサラリーマン増税をしたことについて「公約違反」と指摘。「国民不在の政治を変える」と訴えた。《福井新聞》
【宮本顕治さん】死去
共産党の委員長や議長などを務めた宮本顕治氏が18日午後2時33分、都内の病院で老衰のため、死去した。98歳だった。告別式などは未定。宮本氏はこの数年間、公の場には姿を見せず、東京都渋谷区の東京勤労者医療会代々木病院に入院するなどしていた。共産党を39年にわたって指導した宮本氏の死去は、共産党の一つの時代の終わりを印象づけた。
宮本氏は山口県出身。戦前から共産党員として活動した。1933年、治安維持法違反などで検挙され、終戦まで12年間、獄中にあり、転向を拒否し続けた。
50年代前半、同党は路線をめぐって分裂し、極左冒険主義に走る中で宮本氏は非主流派だった。だが、55年に宮本氏は党執行部に復帰、58年に書記長、70年に委員長、82年に議長と要職を歴任した。以降、97年に議長を辞任するまで党を指導し続けた。国会議員としては、77年に参院全国区で初当選し、連続2期務めた。《読売新聞》