平成3514日目

1998/08/22

この日のできごと(何の日)

【第80回全国高校野球選手権大会】横浜、春夏連覇

横浜高(東神奈川)が松坂大輔投手(17)の無安打無得点試合で史上5度目の春夏連覇―。第80回全国高校野球選手権大会最終日は22日、5万5000人で満員となった兵庫県西宮市の甲子園球場で決勝を行い、横浜高が京都成章高(京都)に3−0で快勝し、今春の選抜大会に続く優勝を果たした。

松坂投手のノーヒットノーランは大会史上22人目(23度目)。決勝では昭和14年の第25回大会で和歌山・海草中(現向陽高)の島清一投手が下関商戦で達成して以来59年ぶりで、戦後初の快挙だった。横浜高は新チーム結成後、昨秋から公式戦無敗の41連勝となった。《共同通信》

横浜の松坂が、大会史上2度目となる決勝戦での無安打無得点試合を記録し、春夏連覇を達成。カ強い投球と精神力は驚嘆させられるばかりだった。

直球のスピードは好調時に比べると遅めだったが、しり上がりに投球のリズムはよくなった。一回一死から四球を選ばれたが、併殺。七回二死からの振り逃げ(記録は三振と暴投)と、八、九回に与えた四球から許した走者による3残塁に抑え込んだ。3四球、11奪三振の快投は見事の一言に尽きる。

準決勝まで合計660球を投げ、この試合でも122球。連覇の期待を一身に背負い、実現させたのだから、底知れぬ心技体の持ち主だ。

エースを支えた打線は四回、松本が左越えに先制本塁打。五回には先頭斉藤清が左前打。犠打で二進した後、佐藤が右翼手手前にしぶとく落とす適時打。八回は二死二塁から斉藤清が中前適時打し、加点した。

京都成章の左腕古岡も、松坂に劣らない文字通りの全力投球を見せてくれた。この試合で初めて許した走者が、松本の本塁打。その後も自慢のカーブを軸に押し、強力な横浜相手に3失点は立派だった。願わくは、打線にバントやたたきつける打撃などのひと工夫が欲しかった。《共同通信》

大舞台で最高の投球−。横浜の超高校級右腕、松坂が史上5度目の春夏連覇がかかった決勝で、無安打無得点試合を達成した。決勝では第25回大会の島(海草中)以来、59年ぶり2人目。驚異の17歳がやってのけた戦後初の快挙に、超満員の甲子園が揺れた。

この日の122球目、大会通算782球目だった。スタンドの「あと1球」コールの中、最後は打者を外角スライダーで空振り三振に仕留めた。あらしのような拍手の中で松坂はこぶしを握り締め、「甲子園が自分を大きくしてくれた」−。

京都成章打線を封じ込み、終盤へ。「スコアポードは見たけど、記録のことは意識しないようにした」。無安打に観衆がざわつき始め、八回を迎えた。先頭に四球。伝令が出た。「ノーヒットノーランを狙え」の指示だった。次打者の投前バントを華麗な守備で二封。右前に抜けようかという打球も二塁手の松本が好捕し、アウトにした。

渡辺監督の目は潤んでいた。春と夏。渡辺監督は二つの山に例え、春の頂点からの下山途中で、チームが迷走しかけたことを振り返った。選抜大会優勝で選手に髪を伸ばすことを許した。だが、ナインに気の緩みが出て、「このチームはあきらめた。野球をやめろ」と松坂らをしかり飛ばした。

新たな気持ちで目指した夏に、また頂上に登り詰めた。新チーム結成後、昨秋からこれで公式戦無敗の41連勝。同監督は松坂らに文句なしの「100点」をつけた。《共同通信》

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【Jリーグ第2ステージ】第1節

Jリーグ第2ステージ第1節(22日・市原臨海競技場ほか=9試合)第1ステージ優勝のジュビロ磐田は横浜マリノスに敗れて黒星スタート。2−2での延長後半、安永にVゴールを決められ、2−3で敗れた。第1ステージ2位の清水エスパルスは4−2で横浜フリューゲルスに快勝。名古屋グランパスは京都サンガを接戦の末、3−2で振り切った。鹿島アントラーズは柳沢が2得点するなど、ジェフ市原を3−1で破った。《共同通信》

【村山実さん】死去

プロ野球元阪神タイガース投手・監督で野球解説者の村山実氏が22日午後11時38分、直腸がんのため神戸市中央区の神戸大病院で死去した。61歳だった。兵庫県出身。

関西大のエースとして上田利治・日本ハム監督とバッテリーを組み、関西六大学野球リーグ(現関西学生野球リーグ)で活躍。1959年に阪神に入団、新人でいきなり18勝を挙げ、最優秀防御率をマークした。62年に25勝を挙げ最優秀選手に。

投手兼監督となった70年には戦後最高の防御率0.98をマーク。この記録は現在も破られていない。72年に退団するまでに3度、沢村賞を受賞した。プロ野球通算14年で509試合に登板、通算成績は222勝、147敗で防御率2.09。《共同通信》



8月22日 その日のできごと(何の日)