平成2557日目

1996/01/08

この日のできごと(何の日)

【与党】首相候補に橋本龍太郎氏

首相指名選挙の与党統一候補になる見通しとなった自民党総裁の橋本龍太郎通産相は8日午前、東京・六本木の自宅マンション前で「すごく肩が重くなってきた」と初めて首相候補を意識した心境の一端を語った。

午前9時すぎ、マンション玄関に現れた橋本氏はトレンチコート姿。待ち構えた約30人の報道陣を見ると「困ったな」と苦笑い。「そろそろなんとかしなきゃ。近所から苦情が来ている」と続けた。7日夜の3党の新政策合意を受けて「正式に総理候補になるが」との質問に「すごく肩が重くなってきた」と厳しい表情で答えた。

しかし重ねて「総理の重責が近づいたのでは」との質問には「まだ本当にそういう感じにならない」「まだ党首会談も済んでいない」といつもの慎重な姿勢に戻った。また新政策合意については「寝つきが悪かった」とはぐらかし、車で党本部に向かった。《共同通信》

与党3党は8日夜、国会内で村山富市首相(社会党委員長)、橋本龍太郎自民党総裁、武村正義・新党さきがけ代表の3党首会談を開き、新たな3党合意を確認、首相指名選挙の与党統一候補に橋本氏の擁立を正式に決定した。11日の臨時国会で橋本新首相が誕生する。

野党・新進党は8日、役員会、両院議員総会などを開き、橋本首相候補に対し早期解散を求め、議員辞職をちらつかせるなど対決姿勢を鮮明にした。

橋本氏は8日、自民党本部で加藤紘一幹事長や旧派閥の代表らと断続的に協議するとともに、社会、さきがけ両党幹部とも連絡を取り合い、橋本新内閣の閣僚選考を本格的に開始した。9日には与党幹事長・書記長会談で閣僚ポストの3党への割り振りなどを行う。《共同通信》

自民党の橋本総裁は8日夜、与党3党首会談で首相候補に決定後、記者団のインタビューに答え「責任をあらためて感じている。この1年半、3党の枠組みを守るため河野洋平前総裁はじめ皆が国政のため最善を尽くした結果だ」と、感想を述べた。

沖縄の少女暴行事件をきっかけに高まった米軍基地問題などについて「沖縄の方々の気持ちを理解する努力、苦しみを解決する努力をしたかと言われれば、じくじたるものがある。あらためてその気持ちを受け止め、日米関係を安定させていきたい」と、基地問題に真剣に取り組む意向を強調した。《共同通信》

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【サッカー・全国高校選手権】静岡学園、鹿児島実、両校優勝

サッカーの全国高校選手権最終日は8日、東京・国立競技場で静岡学園(静岡)−鹿児島実(鹿児島)の決勝を行い、延長の末2−2で引き分け、規定により両校優勝となった。ともに初の栄冠獲得。

試合は、静岡学園が前半28分に森山が先制し、後半開始直後には石井のゴールでリードを広げた。しかし、鹿児島実は後半4分に柏野の得点で1点差とし、土壇場の後半終了3分前にまたも柏野が決めて同点。延長はともに得点を挙られなかった。両校優勝は4大会ぶり7度目。《共同通信》

【中日・宣銅烈投手】入団会見

抑えのエースとして期待される中日の宣銅烈投手(32)=韓国=の入団発表が8日、星野監督同席のもと、名古屋市内の中日ビルで行われた。会場には韓国からも大勢の報道陣が詰めかけた。

宣は「中日はもともと行きたいと思っていた球団。野球については監督、コーチに一つずつ教えてもらうつもりです」と謙虚に話した。背番号もすでにエースナンバーの「20」に決まっている。「身に余る番号で監督にはとても感謝している。それにこたえるためには、いい成績を残すこと」ときっぱりと話した。《共同通信》

【大相撲初場所】2日目

大相撲初場所2日目(8日・両国国技館)横綱曙と大関若乃花が初日に続いて敗れる波乱となった。曙はまともな引きで墓穴を掘り、先場所も不覚を取った新小結の土佐ノ海に押し出された。横綱が初日から連敗したのは、平成4年春場所の北勝海以来。若乃花は小結武双山に力負けして押し倒され、場所後の横綱昇進が難しくなった。大関武蔵丸は粘る旭豊に寄り倒された。横綱貴乃花は北勝鬨を危なげなく送り出し、大関貴ノ浪は栃乃和歌を寄り切ってともに2連勝。《共同通信》

【政界談話室】

○・・・村山富市首相は8日、首相官邸を表敬訪問したパレスチナ評議会選挙監視団の海老原紳団長らを前に原稿なしで「パレスチナ問題の解決は中東和平に重要」などと約5分間にわたってあいさつした。これまで会合などでは秘書官らの用意した原稿を読むことが多かった首相だが、昨年末ごろからノー原稿のあいさつがぐんと増えた。そこで記者団が「1年半の成果か」と水を向けると「そんなことはない」といったんは否定したが「もうそろそろいいんじゃないか」と言い直し。脱官僚、宣言のつもりなら少し遅すぎた感も。

○・・・加藤紘一自民党幹事長はこの日、全電通の旗開きに初めて出席し、「自民党幹事長が呼んでもらったのは歴史的な日ではないか」と感激したふう。直前の芦田甚之助連合会長のあいさつを引き合いに出して「動かざること山のごとしであるべきだ、と話された。確かに動きようがないが、どこに座って動かないのか最近見えない」と社会、新進支持で分裂している連合の現状に苦言。それでも最後は「鷲尾悦也連合事務局長が言うように、政治は産業別だと思う。自民党にそれぞれの産別と政策議論する窓口だけは(開いてほしい)」と、労働組合への陳情で終わった。《共同通信》

【米・ワシントン】雪で政府機能まひ

7日からほぼ50年ぶりの大雪に見舞われた米東部は8日、首都ワシントンで連邦政府の機能がまひ状態となり、ニューヨークでも繁華街から車が消え、証券取引所や商品取引所の業務も大きな影響を受けた。地元テレビなどによると、寒波による凍死や事故の死者は30人を超えた。

予算審議をめぐる議会と政府との交渉が進展し、8日から連邦政府の機能停止が解除される予定だったワシントンでは、大雪のため職員の出勤が不可能となって臨時休業となり、機能まひ状態が続いた。

ニューヨーク中心部の五番街はノロノロ運転の除雪車と路線バス以外はほとんど車が走らず、あちこちに積み上げられた雪の山で遊ぶ市民の姿が目立った。ニューヨーク証券取引所は立会時間を3時間に短縮。金の取引所なども閉鎖された。

各地の積雪はフィラデルフィアで76.2センチと観測史上最高を記録したのをはじめ、ニューヨーク郊外の-ニューアークで71センチ、ニューヨークのセントラルパークで46センチなどとなっている。

7日から閉鎖が続いていたニューヨーク地区の3カ所の国際空港では、約1700人が足止め状態となって待合室などで一夜を過ごした。《共同通信》

【三橋美智也さん】死去

民謡で鍛えた伸びのある高音で「哀愁列車」「古城」など数多くのヒット曲を生んだ歌手の三橋美智也さんが8日午前11時半、多臓器不全のため大阪市阿倍野区の病院で死去した。65歳。北海道出身。

三橋さんは昨年10月26日、ゴルフをした後、午後6時半すぎ大阪市西成区で、乗用車内で倒れ意識不明となり、そのまま病院に収容された。

幼少で父親を亡くし、5歳から母親に江差追分などの民謡を教え込まれた。10代で全国を巡業した後、19歳で上京し、ボイラーマンをしながら歌の勉強を重ねた。昭和29年に「酒の苦さよ」でデビュー。

30年に「おんな船頭唄」が大ヒットしてスター歌手の仲間入りを果たした。翌年の「リンゴ村から」「哀愁列車」をはじめ「夕焼けとんび」「古城」「達者でナ」「星屑の町」と、時代を代表する歌を次々と30年代にヒットさせた。

48年には民謡の地位向上のため民謡「三橋流」を設立し家元に。「北海盆唄」や「花笠音頭」のレコードも、それぞれ百万枚を超えるロングセラーとなった。三橋流の弟子には人気歌手の細川たかしさんらがいる。

50年ごろから糖尿病を患ったが、担当したラジオの深夜番組で若者の支持を集め、ディスコで踊るような衣装で「ミッチー・ブーム」を起こした。58年には、レコードのプレス枚数の総計が1億枚を突破した。《共同通信》

【仏・ミッテラン前大統領】死去

2期14年にわたりフランスの社会党政権を率い、ドイツと協力しながら、欧州統合にも尽力したフランソワ・ミッテラン前フランス大統領が8日午前8時半(日本時間同日午後4時半)、パリ市内で死去した。79歳。葬儀は故郷の同国南西部シャラント県ジャルナックで営まれ、遺体はミッテラン家の墓に埋葬される。

ミッテラン前大統領は昨年5月、大統領職を保守、共和国連合(RPR)のシラク氏に譲って退陣してからは政界から引退、前立腺がんで闘病生活を送っており、死去がフランスの政治に与える影響はほとんどないとみられる。

シラク現大統領は「14年間にわたり、フランスの歴史に重要な1ページを加えた」と声明で前大統領の死を悼んだ。

ミッテラン前大統領は、分裂していた左翼勢力を結集して1981年、第五共和制下で初の社会党大統領として当選。ドゴール元大統領を超える14年間の長きにわたり、フランスの権力の座にあった。冷戦終結後はコール・ドイツ首相と二人三脚で欧州統合を強力に推進した。92年4月にはフランスの地下核実験停止を発表、後任のシラク大統領には実験を再開しないよう言い残した。

1916年10月26日生まれで、第二次大戦中は対独抵抗運動(レジスタンス)に参加し、捕虜になった経験を持つ。戦後の第四共和制下で内相、司法相を務めた。71年から81年まで社会党第一書記を務めた後、81年にジスカールデスタン氏を破り、大統領に当選した。

就任後は社会主義的な社会・労働政策、地方分権化を大胆に進め、独自外交で強い個性を発揮。特に、大戦中の経験から欧州統合が欧州の安全保障に不可欠との信念で、市場統合、通貨統合の実現にまい進した。88年に再選されたが、失業増加や社会党の汚職などから政権基盤が弱体化し、保守勢力の復帰を許した。《共同通信》



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