平成2467日目

1995/10/10

この日のできごと(何の日)

【鎌倉シネマワールド】オープン

時代劇から最新の未来映像まで、映画と映像の世界を体験できる「鎌倉シネマワールド」が10日、神奈川県鎌倉市の松竹・大船撮影所内にオープンした。

シネマワールドは映画誕生100年と松竹の創業100周年を記念し建設された鉄骨3階建て、総面積約2万3000平方メートルのテーマパーク。

映画「男はつらいよ」に登場する葛飾・柴又の街並みのほか、日本の時代劇、1950年代のハリウッド、未来の宇宙空間が映画セットと映像で巧みに再現され、映画の歴史コーナーでは巨匠・故小津安二郎監督の作品の世界にも触れることができる。《共同通信》

昭和64年1月1日〜このサイトをご覧頂いている日の一週間前まで、すべての日の「何らかの」できごとを記しています。

情報量が少ない日は随時加筆中です。

引用記事は名前、住所など一部修正の上、抜粋してあります。

外国の方のお名前、地名などは現時点で一般的に通じるものに書き換えています。(例・ロシアのプーチン氏はかつてプチン氏と表記されていました)

古い記事の多くは「書き写し」のため、誤字脱字が多数あります。見つけ次第修正しています。

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【世界体操・鯖江大会】閉幕

’95世界体操鯖江大会は10日、サンドーム福井で男女計5つの種目別決勝が行われ、男子鉄棒で日本の畠田好章(紀陽銀行)が銀、平行棒で田中光(同)が銅メダルをそれぞれ獲得した。

競技終了後、閉会式が行われ、FIG(国際体操連盟)旗が来年の開催地であるプエルトリコのサンフアン市に引き継がれた。鯖江市嚮陽会館などでファイナルフェスティバルも開かれ、市民や選手らが和やかに交流。56カ国・地域が参加して、大きな感動と友情の輪を広げたアジア初の大会はさわやかに幕を閉じた。《福井新聞》

【Jリーグ・ドリームマッチ】

サッカーJリーグの日本選手選抜と外国選手選抜によるJリーグ・ドリームマッチは10日、東京・国立競技場に約5万人の観衆を集めて行われ、日本選手選拔が3−1で勝った。 日本選手選抜は前半5分に三浦(川崎)がFKを直接決めて先制。3分にもラモス(川崎)のパスに抜け出した三浦が2点目を入れ、8分に福田(浦和)が加点した。ブラジル代表の主将ドゥンガ(磐田)など各国の現役、元代表をそろえた外国選手選抜は数多くチャンスをつくったが、詰めが甘く、前半のPKによる1点に終わった。最優秀選手には2得点の三浦が選ばれた。

Jリーグで着々と得点を重ねる三浦が、序盤の連続ゴールで流れを引き寄せ、日本選抜を勝利に導いた。特に前半5分にFKを直接入れた先制点は、世界の名手たちのお株を奪う一発だった。 左足でけったボールは、鋭いカーブを描いてネットに。三浦本人も「スピード、曲がり方、高さとも理想的。左では今までで一番いいFKだった」と自画自賛していた。《共同通信》

【プロ野球・西武】辻発彦内野手に戦力外通告

西武の小野球団代表は10日、所沢市内のホテルで辻発彦内野手(36)に、来季の戦力構想から外れていることを通告、合わせて二軍コーチ就任を要請した。これに対して、辻は「しばらく、時間を下さい」と態度を保留した。小野代表は「本人が望む方向で進めたい」としており、辻が現役を続けることにこだわる場合、獲得したい球団があれば、トレードーか、自由契約による移籍となる見込みだ。

辻は1984年ドラフト2位で西武に入団。華麗な守備で中心選手として、西武の優勝に大きく貢献してきた。しかし、昨年から持病の腰痛が悪化。12年目の今季は規定打席に届かず、打率2割3分8厘、2本塁打、20打点の成績。推定年俸2億円に見合う働きはできず、若返りを図る球団の構想から外れることになった。《共同通信》

【北朝鮮】朝鮮労働党創建50周年記念日

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は10日、朝鮮労働党創建50周年記念日を迎え、平壌の金日成広場で軍事パレードと100万人の市民行進が大々的に行われた。金正日書記はパレードに出席したが、肩書はこれまでと同様の「国防委員会委員長・最高司令官」で、注目された党総書記への就任はなかったもようだ。また金書記の発言はなかった。

北朝鮮が後継体制の正式スタートより食料不足などの経済困難の乗り切りや水害被害への取り組みを最優先にしたことは明らかで、正式な「権力継承」を先送りしたまま当面、故金日成主席の遺訓に基づく統治を続けるとみられる。《共同通信》

【明石康氏】旧ユーゴ特別代表を辞任

ガリ国連事務総長は10日、1994年1月から旧ユーゴスラビアの国連活動を統括してきた明石康・国連特別代表を11月1日付で退任させ、事務総長特別政治顧問(事務次長)に任命すると発表した。明石代表の辞任の意向を受けた措置という。後任はアナン平和維持活動(PKO)局長(事務次長)。

空爆を背景にした米国の和平調停が進展する中、軍事力の行使に慎重な姿勢を取り、米国の批判の矢面に立ってきた明石代表の退陣は、国連PKOの限界を印象づけ、今後の各地のPKOの展開の在り方にも影響を与えるとみられる。

明石代表は記者会見で、和平達成前の辞任への無念さを表明する一方、国連を抜きにした米国主導による調停急進展の流れの中で「時々役者を替えてみるのも良いことだ」と述べ、国連PKOと、同代表の旧ユーゴでの役割は終わった、との認識を示した。

ボスニア紛争は、8月末からの北大西洋条約機構(NATO)の本格空爆後は、イスラム教徒、セルビア人、クロアチア人両勢力の紛争3当事者間の和平交渉が進み、国連防護軍は兵員の大幅削減を開始。和平達成後は防護軍を全面撤退させNATO軍主体の多国籍軍と入れ替える計画が進むなど、国連の任務は徐々に少なくなっていた。

明石代表はカンボジアPKOを成功させた実績を買われて就任した直後の94年2月、サラエボからの重火器の撤去と停戦を実現、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の早期解決の担い手と期待されたが、同年春からのNATO軍の空爆に対して慎重な姿勢を取り、米国との溝が深まった。《共同通信》



10月10日 その日のできごと(何の日)