平成1959日目

平成6年5月20日(金)

1994/05/20

【中野富士見中学いじめ自殺事件】原告側逆転勝訴

昭和61年2月、東京都中野区中野富士見中2年、鹿川裕史君=当時(13)=が「このままじゃ、“生きジゴク”になっちゃうよ」との遺書を残して自殺した事件で、両親が東京都と中野区(学校側)、鹿川君をいじめたとされる男子同級生2人の両親に総額約6000万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が20日、東京高裁であった。

菊池信男裁判長は“葬式ごっこ”を含め鹿川君への継続的ないじめを認定。「学校側は適切な対処を誤った」などとして一審の東京地裁判決を変更、賠償額を増額し被告4者に計1150万円の支払いを命じる原告側逆転勝訴の判決を言い渡した。

自殺については、いじめが原因と認めたものの、学校側は自殺を予見できず賠償責任はないと判断した。菊池裁判長は「教師らが適切な問題意識を持っていれば、実態を正しく把握し、いじめ防止の措置を講じることができた」と指摘、あらためて教育現場の自覚を促した。

判決理由で菊池裁判長は、鹿川君が60年6月ごろ校内のつっぱりグループに取り込まれて以降、使い走り役の立場が固定し、2学期には暴行を含め、ことあることにいじめを受けるようになったと認定した。特に60年11月の“葬式ごっこ”は「加わった生徒や教師は悪ふざけのつもりだったとしても、鹿川君本人が精神的に大きな衝撃を受けなかったはずはなく、教師らは集団的いじめをに加担したに等しい」と強く非難した。

その上で、中野富士見中では当時、いじめ問題の研修会などが教師を対象に開かれ、担任教諭や校長らは鹿川君へのいじめを認識できたのに適切な対処を怠ったとして、学校側の過失責任を認定。いじめた生徒の親も監督義務を怠ったと述べた。

しかし自殺については、いじめが主な原因としながらも「いじめによる自殺が通常のこととは言い難い」と指摘。学校当局や両親でさえも、自殺を予想できなかったと述べた。

鹿川君の両親側は控訴審で、新たにいじめ問題の研究者の意見書を証拠申請し、専門家の目からも、鹿川君が執ように悪質ないじめを受けていたのは明らかと強調。当時、いじめを苦にした中学生の自殺が多発しており、重大で悪質ないじめが行われているとの認識があれば学校側は自殺を予見できた、などと主張していた。《共同通信》



【大相撲夏場所】13日目

大相撲夏場所13日目(20日・両国国技館)大関貴ノ花は、栃乃和歌をもろ差しで危なげなく寄り切り12勝1敗。14日目で貴ノ花が勝ち、ただ一人1差で追う大関武蔵丸が敗れると、貴ノ花の2場所ぶり5度目の優勝が決まる。武蔵丸は北勝鬨を押し出して、11勝2敗。大関貴ノ浪は鬼雷砲にはたき込まれて11日目から3連敗、9勝4敗となり優勝争いから脱落した。関脇同士の一番は、琴錦が武双山を押し出して8勝目。魁皇、寺尾の両小結はともに勝って7勝目を挙げた。《共同通信》

【日本新党】前原誠司氏、枝野幸男氏らが離党

日本新党の荒井聡、前原誠司、枝野幸男、高見裕一の4氏は20日午後、記者見し、統一会派「改新」結成をめぐる執行部の対応に反発して離党、新会派「民主の風」を結成したと発表した。週明けにも新党さきがけ、グルーブ青雲と統一会派を組む方向で調整に入る。これに先立ち、4氏は細川代表(前首相)と都内で会い、離党の意思を伝えた。細川氏は「対立関係にならず、話し合いができる仲であり続けよう」と述べ、了承した。

日本新党の離党者はグルーブ青雲を結成した3氏に続くもの。党内には「改新」をめぐる執行部批判が根強く、細川氏の進退問題もくすぶっているため、6月11日の全国代表者会議での対応いかんでは、さらに離党者が出る可能性もある。

荒井氏は会見で、離党理由について「『改新』の解消を働き掛けたが、困難と判断した。『改新』から離れ、日本新党が掲げた理想の実現に向けて民主派を結集させるべきだと判断した」と述べた。

羽田政権に対しては、連立政権の政策協議に合意した立場から予算案と関連法案には賛成、その他は是々非々で臨む方針。細川氏の証人喚問には反対する考えを表明した。《共同通信》

【羽田孜首相】公共料金値上げ「慎重であるべき」

羽田孜
https://www.kantei.go.jp/

参院予算委員会は20日、与野党が対立していた証人喚問、参考人招致問題を先送りし、1994年度暫定補正予算案を審議した。同日夕、予算委、参院本会議で可決、成立した。

公共料金の値上げ年内凍結に関して、自民党の前島英三郎氏が凍結を3年間延長するよう求めたのに対し、羽田首相は「そこまでは考えられない」と長期凍結は困難との考えを示した。

しかし同時に首相は、凍結解除の際の大幅値上げの懸念に対し「リストラクチャリングなど厳しい対応を(関係機関の)部内でやってもらいたい」と述べ、経費や人員の合理化で値上げ幅を圧縮する方針を打ち出した。郵便料金など既に値上げした公共料金も「合理化を徹底し(再)値上げは慎重であるべきだ」と強調した。

首相は、党首を務める新生党が同党の愛野興一郎衆院議運委理事を更迭したことについて「いろんな指摘があることは念頭において、分かりやすい民主的な(党)運営に努めてほしい」と述べ、小沢同党代表幹事の手法への批判をにじませた。

柿沢外相が、自民党時代の代表質問で政権交代を求めたことについて「表現に不適切な点があれば(代表質問の一部を)取り消す」といったん答弁したことに対し、野党が「無責任だ」と反発し審議が一時中断。外相一が「取り消すかのような発言は適切でなく、予算委理事会におわびする」と陳謝した。

熊谷官房長官は、本予算が国会会期中に不成立の場合に触れ「会期延長をお願いしなければならない」と、答弁、首相の「どうしても会期内に上げたい」との答弁との食い違いを追及されて「あくまで会期内に成立してほしい」と答弁を修正した。《共同通信》

【政界談話室】

○…羽田首相は20日、小沢新生党代表幹事を批判した同党の愛野興一郎衆院議運委理事が更迭を言い渡された問題について「僕は知らない。どうのこうの言えない」と述げの一手。19日の愛野氏との会談でも「(愛野さんからは)何の話もなかった」ととぼけた。しかし記者団が小沢氏の政治手法に話を向けると、首相は下向き「うーん」とうなったまま。沈黙の後「理事交代の全体の話の中でそうなったと聞いた」とやっとつぶやいたものの、小沢氏との「二重権力」批判が強いだけに苦渋の色…。

○…熊谷官房長官はこの日の参院予算委員会で、小沢新生党代表幹事が「改新」結成に絡み「どの女と寝ようがいいじゃないか」と発言したと報じられた問題に対する女性問題担当としての見解を、自民党の前島英三郎氏に問われた。しかし長官は「政府として調査する立場にない」と、一般論での答弁に終始。前島氏は「あなたは小沢氏の側近なのだから、電話で調べてください」と詰め寄った。熊谷氏は顔色を変えて「私は直接小沢氏に仕えているわけではない。側近と言われるのは迷惑だ」。自民党内からは「愛野氏に続く小沢離れ発言」と皮肉る声も。《共同通信》

【自民党】倒閣へ全国行動開始

自民党は20日午後、党再生と政権復帰へ国民の理解を求めるキャンペーン「政権奪還アクションプログラム」を仙台市でスタートさせた。「従来の遊説とは違った、新しい形式」(幹部)を目指し、各都道府県連とのブロック会議に街頭での対話集会を加えて行うもので、今後全国各ブロックで繰り広げる。

河野総裁は政権復帰への決意を強調したが、市内のホテルで開かれたブロック会議では「アクションプログラムよりも党の体質改善と政策提示が先決」(宮城県連)など厳しい声も飛び出し、執行部と地方組織とのギャップを見せつける形となった。

河野氏は「連立内閣は自民党の政策を継承しており、政策の違いはそんなに出ない」と新たな政策を打ち出す難しさを強調、釈明に努めた。各地方組織で離党者が出ている現実を指摘されても、河野氏は「自信を持ってほしい」と訴えるだけで、明確な対策は示せなかった。

同市の目抜き通りで開いた街頭集会では、参加した青年層から「自民党を相撲の力士に例えるとだれですか」と質問を受け、河野氏は「貴ノ花になりたい」と胸を張った。「その割には小技ばかり使う。もっと横綱相撲を」との厳しい指摘も受け、河野氏は「人の揚げ足ばかり取るつもりはない」と防戦一方だった。《共同通信》

【伊東正義さん】死去

海部政権で自民党の政治改革本部長を務めた元外相の伊東正義氏が20日午前5時、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去した。80歳。福島県出身。

故大平正芳元首相の親友で、昭和55年6月、大平首相が衆参同日選挙中に急死した際、官房長官として首相臨時代理。平成元年4月、リクルート事件で退陣表明した竹下首相の後継に就任要請されたが、健康問題に加え、リ事件に対する党内のけじめが明確にされなかったことから「表紙だけを変えても駄目」の名せりふで首相のいすをけり、“会津っぽ”の頑固さを見せつけた。

海部政権下で党政治改革本部長として選挙制度を中心とする政治改革に打ち込んだが、小選挙区比例代表並立制などを内容とする政治改革3法案が廃案となったことに責任を感じ、平成3年10月、本部長を辞任した。その後、体調を崩し、入院生活が続いたため、昨年7月の総選挙に出馬せず政界を引退。自宅で療養生活を続けていた。

大正2年12月、会津若松市に生まれ、東大法学部を卒業し農林省に入省。農林事務次官を経て、昭和38年の総選挙に福島2区から出馬。当選9回。

大平氏の補佐役に徹し、54年11月、第二次大平内閣の官房長官。次の鈴木内閣で外相に就任。56年五月、「日米同盟関係」に関する鈴木首相の発言に抗議して辞任。

61年7月、第3次中曽根内閣で自民党政調会長。党税制改革推進本部長を引き受け、売上税導入を試みたが法案は廃案となった。その後、竹下内閣で総務会長に横滑り。リ事件で竹下内閣が崩壊、自民党実力者総汚染の中でひとりクリーンだったことから、総理・総裁の座へ“伊東コール”の大合唱が起こった。

日中友好議連会長として中国の信頼は抜群で、日中友好はライフワーク。自民党アジア・アフリカ問題研究会(AA研)会長も務めた。《共同通信》



5月20日のできごと