平成4168日目
2000/06/06
この日のできごと(何の日)
【オウム裁判】東京地裁、井上嘉浩被告に無期判決
12人が死亡し、5000人を超える負傷者を出した地下鉄サリン事件など10事件で殺人などの罪に問われ、死刑を求刑された元オウム真理教幹部の井上嘉浩被告(30)に対し、東京地裁は6日午後、無期懲役の判決を言い渡した。
井上弘通裁判長は、地下鉄サリン事件での被告の役割について、検察側が主張する「現場指揮役」とは認めなかったものの、「犯行の遂行にあたって他の者では果たせない重要な役割を果たしていた」と指摘した。しかし、「反省悔悟はしんしで顕著」「地下鉄サリン事件では自ら実行行為を行っていない」などと述べ、「極刑を選択するにはいくぶんかのちゅうちょを感じる」と結論付けた。検察側は控訴する方針。
井上被告は、教団「諜報省」トップで教団前代表・松本智津夫被告(45)の「側近中の側近」と言われた。この日の判決は他の被告の公判にも影響を与えそうだ。
この日午前10時に開廷し、井上裁判長は主文の宣告に先だって3時間以上にわたって判決理由を朗読した。
井上裁判長は、地下鉄サリン事件について、教団への強制捜査を恐れ、松本被告らが順次共謀して計画したと認定。井上被告の役割を、「現場指揮役としての独自の決定や指示は見あたらない」としたものの、実行役が集結するアジトを提供▽犯行に使う車を調達▽散布役と送迎役に故・村井秀夫幹部の指示を伝えた――などを挙げ、「諜報省長官としての能力がなければ短時間に犯行準備はできなかった」と指摘した。
また、松本被告や井上被告らが計画を決めたとされた東京から山梨県上九一色村に向かう車中の「リムジン謀議」については「井上被告に現場指揮などの指示はなかった」として、共謀を否定した。一方で「井上被告がサリンをまくことを言いだしたことが契機となった」とし、本来の犯行メンバーでないのに犯行に加担していった井上被告の行動などを挙げて共謀共同正犯の成立を認めたものの「責任は非常に重いが、実行役と同一視するまでは言えない」と述べた。
さらに、当時の井上被告の心理状態について、採用した西田公昭・静岡県立大講師の心理鑑定について検討。「修行を通してマインドコントロールを受け、松本被告の命令に反することができなかった」との鑑定結果に対し、「松本被告によって思考や行動をかなり制約される状況にあったが、自己決定を否定され、絶対服従する状態にまでは至っていない」と判断。「有利な情状の一つとして評価できる」とした。
また、目黒公証役場事務長の監禁事件では「死亡と監禁行為に因果関係はなく逮捕監禁罪にとどまる」とし、検察側主張の逮捕監禁致死罪の成立を否定した。《朝日新聞》
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【西鉄バスジャック事件】少年を佐賀家裁移送へ
西鉄高速バス乗っ取り事件で、広島家裁(水谷美穂子裁判官)は6日午前、広島地検から強盗殺人などの容疑事実で同家裁に送致され、広島少年鑑別所に収容された佐賀市の無職少年(17)について「関係者のほとんどが住んでいる少年の住所地の方が調査、審判するのに適切」として、佐賀家裁に移送することを決めたと発表した。
少年事件の管轄は一般に本人の居住地となるが、少年の弁護団は「少年と接見を重ねる中で少年との信頼関係が構築できつつあり、少年の両親も佐賀での調査・審判を望んでいない」として、佐賀家裁へ事件を移送しないように広島家裁に要請していた。
水谷裁判官は、移送決定理由で「事件の重大性にかんがみると、少年の生活環境を綿密に調査する必要がある」と指摘。さらに「責任能力が大きな争点となることが想定されるため、担当医らから事情を聴くことが不可欠」とした。
少年は5日、広島地検が広島家裁に送致。同家裁は、観護措置を決定し、広島少年鑑別所に収容された。決定を受けて、少年の身柄は佐賀へ移送される。捜査関係資料もすべて佐賀へ送られ、佐賀家裁が非行事実や心身の状況を調査し処分を決める。捜査段階の簡易鑑定が精神障害の可能性を指摘していることから、家裁は1−3カ月かけ正式な精神鑑定を実施するとみられる。《共同通信》
【豊島事件】公害調停成立
香川県・豊島に不法投棄された約50万トンの産業廃棄物をめぐる国の公害調停は6日、県の謝罪などが盛り込まれた最終合意文書に県と豊島住民が調印し成立した。産廃の完全撤去と県の責任明確化を求めて住民が調停を申請して以来、約6年半ぶりに全面解決した
就任後初めて豊島を訪れた香川県の真鍋武紀知事は、国の公害等調整委員会が提示した合意文書に従って「廃棄物の認定を誤り、豊島住民に長期にわたり不安と苦痛を与えたことを認め、心からおわびする」と述べ、約600人の住民を前に謝罪した。
住民が反対運動を始めてから県の謝罪まで約25年が経過。今後は、約10年かかるとされる産廃の撤去と処理事業や豊島の再興などが課題になる。
同県土庄町の豊島小学校体育館で行われた調印には、公調委の川崎義徳委員長や住民側弁護団の中坊公平団長、県の関係者らが出席。調印後、真鍋知事と中坊団長らが握手をかわし、住民は拍手で応じた。中坊団長は「調停成立でうれしいことは、50万トンを超す産廃が完全に撤去できる見通しが立ったこと、知事が県の責任を認め謝罪したことだ」と調停内容を評価。また、川崎委員長は「廃棄物に関する県の対処は不適切だった」と指摘した上で「ごみ問題の象徴とされた事件が、合意成立という形で終了したことの意義は大きい」と述べた。
真鍋知事は「豊島の処分地周辺は、もとより、瀬戸内海の環境保全に万全を期したい」と決意を表明した。《共同通信》
【横山ノック被告】第5回公判
知事選の運動中にアルバイト運動員の女子大生(22)にわいせつ行為をしたとして、強制わいせつ罪に問われた前大阪府知事横山ノック被告(68)の第5回公判が6日、大阪地裁(川合昌幸裁判長)であり、被告人質問が行われた。
女子大生の告訴後、全面否定した理由について、横山被告は「知事、芸能人の地位など、すべて失うのが怖くてうそをついた」とし、「(警備の)警察官がいるのになぜやったのか。もみ消せると思ったのか」とする裁判官の問いには、「静かにやろうとした。もみ消せるとは思ってなかった」と答えた。
横山被告はほかに、初公判で一転、起訴事実をほぼ認めたことを「弁護士から『真実を言わないと適正な弁護活動ができない』と言われたから」と説明。
公判前に虚偽告訴容疑で女子大生を逆告訴し、記者会見で「でっちあげ」などと反論した点については、「わたしのうそを信じた弁護士の言う通りにした。弁護士の準備した文章を読んだだけ」と弁明した。また、「わたしは女性には親切。はじめはわいせつな気持ちはなく、風邪気味だった女子大生をいたわるつもりでズボンの上から足を触り始めた。抵抗の様子がないのでエスカレートしてしまった」などと、計画性をあらためて否定した。《共同通信》
【サッカー・ハッサン2世杯】最終日
サッカーのハッサン2世杯最終日は6日、カサブランカ(モロッコ)のモハメド5世競技場で行われ、日本代表は3位決定戦でジャマイカ代表に4−0で快勝して3位になった。2年前のワールドカップ(W杯)1次リーグで1−2と敗れた相手に、日本は前半は無得点。しかし、後半開始早々に城(バリャドリード)が先制すると、13分にもFKから城が頭で加点。その後も柳沢(鹿島)三浦知(京都)がゴールを奪い、守備陣も無失点と安定していた。
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日本は後半から奥と三浦淳を投入し、ドリブルを織り交ぜた攻撃で完全にリズムをつかんだ。後半2分、三浦淳の右センタリングを城が胸トラップから豪快に先制。これで勢いづくと、同13分に左サイドから名波のFKを城が頭で合わせて加点した。
選手交代が当たった。同20分には左CKから相手のクリアボールを三浦淳がシュート。これを途中出場の柳沢が角度を変えて入れた。同33分には中田の左折り返しを途中出場の三浦知が詰めて4点目。守備的MFで入った奥のキープ力と3バックの冷静な対処も光った。《共同通信》
【森喜朗首相】情報教育の現場を視察
森喜朗首相は6日午後、情報技術(IT)革命と教育の情報化の現状を把握するため、千葉市内の中学校とソフトウエア開発施設を視察した。主要国首脳会議(沖縄サミット)や首相が打ち出した「日本新生プラン」の大きな柱となるIT革命の最新技術を見るのが狙いだ。
同市美浜区の市立打瀬中では、一年生の生徒に教わりながらパソコンを使った美術の授業に参加。パソコン端末に絵を描き「未来の黒板」と呼ばれる大型モニターに無線で画像を送る作業に挑戦した。
授業を視察後、首相は「僕は実はパソコンができない。今日皆さんにメールを書くために、初めてキーボードを打った。30分も打った」と生徒らに告白。「(IT革命が)進んでいる国とそうでない国がある。産業が栄え、便利になる国がある一方で、できない国は取り残されていく。それを助けていくことが今年の沖縄サミットの一番大きなテーマだ」と力説した。
帰り際には生徒らと記念撮影し「君らにメールを出せるよう僕も頑張りますから、君らも頑張ろう」とエールを送った。《共同通信》
【梶山静六さん】死去
内閣官房長官や自民党幹事長を歴任した前衆院議員の梶山静六氏が6日午後3時45分、閉塞性黄疸のため、入院先の東京都内の病院で死去した。74歳だった。茨城県出身。
1月末に交通事故に遭い、その後遺症による硬膜下血腫の取り除き手術のため、2月19日から入院。その後も回復が思わしくなく、4月20日に政界引退を表明した。
陸軍航空士官学校に学び、終戦後、日大工学部を卒業。茨城県議を経て、昭和44年に日茨城2区から衆院に立候補し、以来9回当選。故田中角栄元首相の信頼を得て田中内閣では官房副長官に抜てきされた。しかし、その後は田中氏とたもとを分かち、竹下登氏(元首相)の勉強会「創政会」旗揚げでは「切り込み隊長」役を務め、力量を発揮した。
竹下派七奉行の一人として実力を蓄え、竹下内閣で自治相、宇野内閣で通産相、海部内閣で法相を歴任。宮澤内閣では国対委員長として国連平和維持活動(PKO)協力法成立などに手腕を振るった。
一方、幹事長だった平成5年6月には政治改革をめぐって同派の小沢一郎氏(自由党党首)らと激しく対立、宮澤内閣不信任決議の可決や小沢氏らの離党を招いた。同7月の総選挙では自民党が惨敗、野党に転落した政治漬任を取って表舞台での活動を一時控えた。
6年6月、羽田内閣崩壊を受け、村山富市社会党委員長(当時)を首相に担ぎ出し、自社さ連立政権の樹立に尽力。8年1月に発足した橋本政権では官房長官に就任した。10年7月の党総裁選では小渕派を離脱、故小渕恵三氏(前首相)と激しく戦ったが2位に終わった。それ以降も金融政策や財政構造改革などの政策提言で存在感を示し、引退声明では「政治に危機感がなく…」と現状に憂慮を表明していた。《共同通信》
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森喜朗首相は6日夕、梶山静六元官房長官が死去したことについて「(初当選が)同期生だった。長い付き合い、いろんな付き合いがあり、思い出もいろいろある。政治家として勘の鋭い人だった。教えられることも多かった。病気でお目にかかれなかったが、心から哀悼の意を表したい」と述べた。《共同通信》