平成1968日目

平成6年5月29日(日)

1994/05/29

【社会党】再連立構想を了承

社会党の中央委員会は29日午後、羽田内閣の自主的総辞職による第三次連立政権樹立構想を柱とする当面の活動方針を原案通り了承した。同時に「現政権には復帰せず、羽田内閣が総辞職しない場合は解散・総選挙を求める」ことを盛り込んだ中央委員会宣言をさちあくして、2日間の日程を終了、閉会した。

これは、現行中選挙区制での衆院解散・総選挙で統制回復を目指すべきだとする地方組織の意見が相次いだことに配慮して、活動方針を事実上一部修正し、両論を併記することで対立する党内路線の妥協を図ったものだ。

しかし、中央委員会を乗り切ったものの「再連立」と「解散」の両にらみ戦略の行方は不透明であり、村山執行部は今後、党内の路線対立を抱えたまま厳しい政局判断を迫られよう。

中央委員会終了後に記者会見した村山委員長は「(総辞職による安定政権が)できなければ、解散して国民の信を問うことで中央委員会の意思は一致した」と強調。速やかに選挙闘争本部を設置し、本格的な選挙準備に取り掛かる方針を示した。

2日目の議論では、初日に続いて政権復帰への賛否に意見が集中。久保書記長は「憲法の理念に向かって改革するには政権を掌握してやるしかない」政権復帰への意欲を強調した。地方代表からは書記長構想支持の意見が出る一方、安易な政権復帰への反対論や解散・総選挙要求が相次ぎ、議論はすれ違いに終わった。

一方、左派系地方組織が提出した平成6年度予算成立後の解散・総選挙要求の決議案と、中間・右派「デモクラッツ」が提出した活動方針支持の決議案の取り扱いは、運営委員会で調整が続けられた。

その結果、「決議で執行部の政局対応の裁量権を縛るべきではない」との意見が大勢を害め、中央委員会宣言に解散・総選挙要求を盛り込む折衷案で妥協が成立。双方が決議案を取り下げ、委員会採決での衝突を回避した。《共同通信》



【自民党・森喜朗幹事長】中選挙区での解散も

自民党の森幹事長は29日午前、同党北海道連大会出席のため訪れた札幌市内で記者会見し、自民、社会両党などの政治改革推進グループが次の総選挙を小選挙区比例代表並立制で行うよう求める署名活動を始めたことについて「基本的に誤りだ。首相の大権(衆院解散権)は何人も侵してはならない」と批判。その上で「羽田首相が自分の考えで解散をやるというなら応じていかざるを得ない」と述べ、現行中選挙区制での解散・総選挙にも応じる決意を表明した。《共同通信》

【自民党・河野洋平総裁】羽田内閣はサミット前に退陣を

自民党の河野総裁は29日午後、新潟市で講演し「少数与党政権(の首相)が先進国首脳会議(ナポリ・サミット)に出て行って何が約束できるか。何か決めてきて、それを実行できるか。一体だれを責任をっもって国際社会に送り出せるのか、考えなければならない」と述べ、7月8日からのサミット前に羽田内閣は退陣すべきだとの考えを表明した。

河野氏はこの後の記者会見で「昨今の政治は昨年夏の総選挙で国民が示した民意を反映しているとは思えない。もう一度民意を問うことがあっていいと思う」と述べ、衆院の早期解散・総選挙も是認する考えを示した。

河野氏は社会党との関係について「少数与党政権に内外の困難な問題を処理する力がない。早急に代わらなければならない、という点までは(社会党と)考え方が一致しているとみている」と述べ、羽田内閣不信任案の提出については社会党が同調するとの見通しを示した。《共同通信》

【エーリヒ・ホーネッカーさん】死去

旧東ドイツ最高指導者エーリヒ・ホーネッカー氏(81)が29日、南米チリで死去した。死因は肝臓がんと伝えられる。

ホーネッカー氏はベルリンの壁崩壊とドイツ統一に直結した1989年秋の旧東ドイツ民主革命で当時の支配政党、社会主義統一党(共産党)書記長、国家評議会議長(元首)の座を追われ、昨年春から高血圧の治療のためマルゴット夫人とともにソ連軍病院に収容されていた。

ベルリンの司法当局は90年12月初め、ホーネッカー氏が旧東西ドイツ国境のベルリンの壁から逃亡しようとした旧東ドイツ市民への発砲を命令していたとして逮捕状を取ったが、ソ連側が身柄の引き渡しを拒否、同氏の「権力犯罪」をめぐる法的処理は宙に浮いた形となっていた。

1912年ドイツ西部アール州の炭鉱労働者の家庭に生まれ、17歳で共産党に入党。ヒトラー政権下で反ナチ抵抗運動に参加し、第二次世界対戦でドイツが敗北するまで約10年間を獄中で過ごした。

戦後は党中央委員を皮切りに自由ドイツ青年同盟議長を経て、71年第一書記(後に書記長と改称)、76年国家評議会議長に就任、党と国家の指導権を一手に握った。

ホーネッカー氏は外交舞台で旧東ドイツを国際的に認知させる一方、東欧随一の工業力、経済水準を背景にソ連のゴルバチョフ改革に冷淡な姿勢を貫いた。

しかし、89年夏から始まった市民の旧西ドイツへの大量脱出と民主化要求デモの大波によって同10月、すべての役職から解任された。共産党の一党支配が崩れる中で90年1月には権力乱用などの疑いで一時身柄を拘束され、その後教会の養護施設を経てソ連軍の保護下に入った。《共同通信》



5月29日のできごと