平成949日目

1991/08/14

この日のできごと(何の日)

【吉野ヶ里遺跡】「物見やぐら」一般開放開始

弥生時代わが国最大の環濠集落として知られる佐賀県・吉野ヶ里遺跡の物見やぐらが14日、一般に開放され、東京方面などからの帰省客や古代史ファンでにぎわった。物見やぐらは柱を立てた跡などを基に復元され、高さ約12メートル。兵士が敵の来襲に備えて見張りをするための防護施設とみられ邪馬台国を記述した中国の史書に出てくる楼観に当たるものとして話題を呼んだ。《共同通信》

昭和64年1月1日〜このサイトをご覧頂いている日の一週間前まで、すべての日の「何らかの」できごとを記しています。

情報量が少ない日は随時加筆中です。

引用記事は名前、住所など一部修正の上、抜粋してあります。

外国の方のお名前、地名などは現時点で一般的に通じるものに書き換えています。(例・ロシアのプーチン氏はかつてプチン氏と表記されていました)

古い記事の多くは「書き写し」のため、誤字脱字が多数あります。見つけ次第修正しています。

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【近鉄・野茂英雄投手】2年連続200奪三振達成

近鉄5-1日ハム◇14日◇東京ドーム

野茂が11三振を奪う力投で2年連続200奪三振をマーク、近鉄を5連勝に導いた。制球は不安定だったが、速球で日本ハムの打者を押し込んだ。六回、大内、田中の連続二塁打で1点を失ったものの、結局、3安打を許しただけだった。

近鉄打線は13残塁。とくに序盤はもたついた攻撃だったが、五回に3長短打で2点、終盤も中根の本塁打」などで加点し、野茂をもり立てた。

○…2年連続200奪三振を達成した近鉄の野茂。もっとも本人は「感想?別にありません」と相変わらず記録には無関心だった。直球の指のかかりが悪く前半に4四死球を与えたが、荒れ球が幸いしてか五回まで無安打投球を展開。ノーヒットノーランの期待は六回に消えたが「1失点に抑えられて満足」と、この点にも淡々。これまで3連敗したことは一度もなく、またしてもキッチリと立ち直ってみせたが、次の登板は藤井寺での西武戦。「この前負けたので、ぜひ勝ちたい」と、「打倒西武」の話の時ばかりは闘志をむき出しにした。《読売新聞》

近鉄の野茂英雄投手(22)は14日、東京ドームでの日本ハム17回戦で11三振を奪い、今季202奪三振を記録。ルーキーの昨年(287奪三振)に続いて史上8人目の入団以来2年連続200奪三振をマークした。《共同通信》

【JR水戸駅】コインロッカーに乳児

14日午前2時30分ごろ、水戸市宮町、JR常磐線水戸駅南口のコインロッカーから赤ん坊の泣き声がするのに大学生ら通行人が気付き、水戸署に届け出た。署員と同市消防本部の救急隊員らが駆けつけ、コインロッカーをこじ開けたところ、茶色のスポーツバッグに入った生後間もない女児がおり、無事保護した。

調べによると、赤ん坊は体重約3キロ、身長約50センチ。生命に異状はなかった。約20センチのヘソの緒がついたままで、ベビー服とおむつのカバーだけをつけており、柄物のタオルに包まれていた。《読売新聞》

【海部俊樹首相】モンゴル相撲など観戦

モンゴルでの首脳会談を終えた海部首相は14日午前、幸世夫人とともに、ウランバートル市内の草原で、ビャムバスレン首相夫妻の案内で、モンゴルの伝統的なお祭りである「ナーダム」で、モンゴル相撲や弓、競馬を観戦、帰国前のくつろいだひとときをすごした。

まず、会場内のゲル(牧民のテント)で「デール」と呼ばれる民族衣装に着替えた首相は、「日本のたんぜんのようで楽でいいや」との感想を述べた。つづいてビ首相からモンゴル馬がプレゼントされたが、馬の名は「ダライン・フレグ」。「海を駆ける俊馬」の意味で、海部首相は「海部の『海』に俊樹の『俊』だ」と大喜び。

続いて海部首相は、市内にあるゲルを訪問、牛乳の入った銀杯で乾杯した。その後、特設テントに移り、ビャムバスレン首相主催の野外昼食会で、民族音楽や踊りを楽しんだ。海部首相は14日午後1時ごろ、ウランバートル空港を出発、北京経由で同日夜帰国する予定。《読売新聞》

海部首相は、中国、モンゴル訪問の公式日程をすべて終え、14日午後1時、日航特別機でウランバートル空港をたち、北京空港経由で、同8時30分、羽田空港に到着した。

空港には、自民党の小渕幹事長、西岡総務会長、坂本三十次官房長官、外務省の小和田恒事務次官らが出迎えた。《読売新聞》



8月14日 その日のできごと(何の日)