平成1984日目
1994/06/14
この日のできごと(何の日)
【羽田孜首相】米・クリントン大統領と電話会談
羽田首相は14日昼、クリントン米大統領と約20分間電話会談し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国際原子力機関(IAEA)脱退表明を受けた今後の対応について協議した。
大統領は今回の事態を「深刻な問題ととらえざるを得ない」と強い懸念を表明。首相も「極めて遺憾」と述べ、両首脳は国連安全保障理事会で経済制裁を含む適切な対応を具体的に検討すべきだとの認識で一致した。《共同通信》
昭和64年1月1日〜このサイトをご覧頂いている日の一週間前まで、すべての日の「何らかの」できごとを記しています。
情報量が少ない日は随時加筆中です。
引用記事は名前、住所など一部修正の上、抜粋してあります。
外国の方のお名前、地名などは現時点で一般的に通じるものに書き換えています。(例・ロシアのプーチン氏はかつてプチン氏と表記されていました)
古い記事の多くは「書き写し」のため、誤字脱字が多数あります。見つけ次第修正しています。
【政界談話室】
○…羽田首相は14日、首相官邸で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国際原子力機関(IAEA)脱退声明について記者団に感想を求められると「そうだってねえ。遺憾としか言えない。詳しいことは入ってこないから」と厳しい表情。ところがその後、参院予算委員会に向かう途中、国会裏庭で国会見学に来ていた子供約400人を見かけると、駆け寄った。子供たちが立ち上がって「羽田さーん」と歓声を上げると、右手を大きく三、四度振ってこたえた。「(子供は)前から好きなんだよ」とにこにこ顔で、つかの間、北朝鮮問題も忘れたようだった。
○…渡部恒三新生党代表幹事代行はこの日の同党両院議員総会で「予算の見通しがついた」と同党議員の苦労をねぎらい、「去年の6月18日に新しい政治に向けて命を懸けて(自民党を離党してから)一年がたった」といつになくしんみり。「いろいろと思いがあるが、この一年は十年もやったみたいだ」と波乱続きだった連立政権の一年を振り返った。それでも最後は「羽田政権の中核という責任と誇りを持ってやっていきたい」と檄を飛ばし「羽田首相には堂々とサミットに出てもらいたい」と羽田政権短命説に反発する元気を見せていた。《共同通信》
【巨人・原辰徳内野手】復活の一発
阪神4−7巨人◇14日◇東京ドーム
巨人が15安打で逆転勝ちし、貯金を再び最多16とした。反撃の口火を切ったのは、故障が治りこの日初出場の七番原。2点を追う四回、藪のフォークボールを左翼席前列へ運んだ。これで活気づいた巨人打線は、五回一死から篠塚以下の5連続長短打で3点。さらに六回から1点ずつを加えて逃げ切りの態勢を固めた。
阪神は藪が五回に一気に崩れたのが誤算。打線は淡白な攻めで、槙原の立ち直りも許し、九回の代打長島の2点本塁打も遅すぎた。《共同通信》
【天皇、皇后両陛下】日本語での授業参観
訪米中の天皇、皇后両陛下は13日夜(日本時間14日午前)にホワイトハウスで開かれたクリントン大統領夫妻主催の歓迎晩さん会に出席してワシントンでの公式行事を終え、14日午前(日本時間同日深夜)、米国人の子供たちに日本語で授業をしている郊外のグレート・フォールズ小学校を訪問された。
この学校は日本人の教師が算数や理科など一部の学科を実験的に日本語で教えている。両陛下は実際の授業の様子や子供たちの日本語での合唱を参観された。
午後は別行動となり、ハゼの研究家として知られる天皇陛下がスミソニアン博物館で魚類の研究者と懇談。皇后さまは議会図書館を訪れ、関心のある児童文学について専門家と語り合われる。
クリントン政権初の国賓として米国を訪問した両陛下をもてなす晩さん会では、天皇陛下が「貴国民は自国の在り方を省みつつ、良心を持って自らを変革してきました。最初の訪問地アトランタでこの道の一端に触れたことを印象深く思っています」とあいさつし、全員で乾杯した。
これに対し大統領は「両国民を隔てている海洋が日米を結ぶ輝ける道となりますように」と応じ、歓迎式典で陛下が述べられた「太平洋が『平和の海』となることを」というお言葉に答える形で一層の友好を訴えた。《共同通信》
【ヘンリー・マンシーニさん】死去
「ティファニーで朝食を」の主題歌、「ムーンリバー」などで知られる米国の映画音楽作曲家、ヘンリー・マンシーニ氏が14日、膵臓がんなどの合併症のため米カリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅で死去した。71歳だった。
ジャズを取り入れた流麗なメロディー、早い仕事ぶりで知られ、80本あまりの映画に曲をつけた。「ティファニーで朝食を」(1961年)の「ムーンリバー」と「酒とバラの日々」(62年)の「酒とバラの日々」でアカデミー賞主題歌賞を獲得したほか、ミュージカル映画「ビクター/ビクトリア」(82年)で歌曲・編曲賞を受賞した。他に「ピンク・パンサー」「シャレード」「暗くなるまで待って」など、優れた音楽レコードに対して贈られるグラミー賞も20回受賞した。
イタリアからの移民の子として米クリーブランドに生まれた。8歳のころからピッコロ、後にフルートを習い、ジュリアード音楽院などで学んだ。陸軍を除隊後、ジャズのテックス・ベネキー楽団に編曲者として一参加。ユニバーサル映画の「音楽スタッフとして働いた一後、テレビ映画「ピーター・ガン」の音楽で脚光を浴び、独り立ちした。
今年3月、がん治療を受けていることを公表。4月には、ジュリー・アンドリュース、アンディ・ウィリアムスらが集まり、誕生祝いを開いたばかりだった。《共同通信》